座間コミニティー

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◆イエスは言われた。

2016年09月23日 16時31分19秒 | 聖書
「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ九・二三)
 
ある人の息子が悪霊につかれていた。その父は、弟子たちが息子をいやすことができないのを見て、キリストに対してもほとんど、あるいは全く信仰をもっていなかった。だから、イエスが子どもを連れて来るように命じられた時、「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言った。あわれな震えおののく父は、この「もし」ということばの置き場所を間違えた。そしてイエス・キリストは、「もし」を取り消すことをお命じにはならず、正しい場所に置かれた。イエスはこのように言おうとしておられたようである。「わたしの力、またはわたしが喜んでなすことに関して『もし』はいりません。『もし』は別な所につけるのです。もしあなたが信じることができるならば、信じる者には、どんなことでもできるのです」と。父親の信頼は強められた。彼はへりくだって、不信仰な私をお助けくださいと祈った。イエスがただちにことばをかけられると、汚れた霊は追い出され、イエスは二度と入るなと命じられた。
ここに私たちの学ぶべき教えがある。私たちはこの父親のように、常に「もし」を誤った場所において失敗をくり返す。もしイエスが私を助けられるなら、もし誘惑に勝つ恵みを与えられるなら、もし私に赦しを与えられるなら、もし私を成功させられるなら、と。しかし、もしあなたが信じることができるならば、主はなすことがおできになるのであり、むしろ、なすことを願っておられるのである。あなたは「もし」を間違った場所に置いている。あなたが大胆に信頼することさえできるなら、すべてがキリストにとって可能であるように、あなたにとってすべてが可能なのである。
信仰は神の力の中に立ち、神の尊厳をまとう。王の衣をまとい、王の馬に乗る。それは王があがめられることを喜ぶ恵みだからだ。すべてをなしてくださる聖霊の栄光に取り巻かれつつ、それは神の全能にあって大いなることをなし、勇敢に立ち向かい、力強く耐える。信じる者はすべてを無制限にすることができる。
 
 
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「わたしはあなたがたに言いますが、

2016年09月23日 16時30分25秒 | 聖書

不正の富で、自分のために友をつくりなさい」(ルカ16:9)

管理人が主人の財産を乱費していた事が発覚し、解雇を言い渡され、会計報告を出せと言われた。
彼は債務者を次々呼んで、減額にした。

そうすれば、解雇された時、彼らが何とか自分に有利に計らってくれると踏んだのだ。
主人はこの抜け目のなさをほめた。

主はこのように「不正の富」で自分のために友を作れと言われた。
ここで「不正の富」というのは、悪事で得た富の事ではなく、「この世の富」という意味だ。

不正=この世の意味であり、この世の富を忠実に、御心通りに使って、天に宝を積めという事だ。

この世にいる間に、この世の富で、来るべき天に投資ができる。
天に帰った時に大いなる報いを受ける。神から任された、この世の富を賢く使えとの教えだ。

会計報告を出すのは、所有者でなく、管理人だ。
所有者なら自分の物であり出す必要はない。
しかし、管理人は主人に報告の義務がある。

私たちもこの世の富は管理であって、所有ではない。主人に喜ばれるように、主人に御心を問いながら使う責任がある。

富は容易に偶像になる。富に執着し、固執し、振り回される。
富の主人でなく、奴隷になってしまう。
神と富に仕えるなと言われたのでなく、仕える事は出来ない、不可能だと言われた。
どちらかにしか心は無い。富の使い方に心しよう。
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管理者であるのに、所有者のように抱え込み失う事を恐れてはいないだろうか。
時も財も労もすべては、神様から与えられたもの。
使い方を誤まらないようにしよう。

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今日の聖人の記念日

2016年09月23日 09時25分20秒 | キリスト教

聖テクラおとめ

1世紀

 テクラは、小アジア(トルコ)のイコニオンの裕福な家に生まれた。いろいろな学問を勉強し、18歳のときには婚約していた。

 そのころ、この町を宣教のため訪れた聖パウロの説教を聞き、そのすばらしさに感動したテクラは、キリストの愛の深さを知り、すべてをささげようと、婚約を破棄することを決めた。そのため婚約者がパウロを訴えたので、パウロは追放され、テクラは処刑されることとなった。しかし彼女は奇跡的に救われ、パウロに従ってその宣教に協力し、各地を転々としてアンチオキアに行った。

 この町でもある役人から結婚を申し込まれたが、拒否したために再び訴えられ、処刑されることになった。しかし神から守られているのを証明するかのように、どんなにテクラを処刑しようとしても失敗に終わった。そのため民衆も、彼女の命を助けてくれるように総督に嘆願し、晴れて自由の身となった。

 その後、彼女のもとには教えを求めて多くの人びとが集まったといわれる。テクラはセレウキアで亡くなったとされ、墓の上には大きな教会が建てられている。彼女は、初代教会以来、多くの人びとから尊敬を受けている。

聖ピオ(ピエトレルチナ)司祭

1887年-1968年

 フランチェスコ・フォルジョーネ(後のピオ神父)は、1887年5月25日、南イタリアのベネヴェント県ピエトレルチナに住む、農家の家庭に生まれた。7人兄弟の4番目として育った彼は、信心深い母親の影響を受けて、幼いころから神に一生をささげたいと望むようになった。1903年、フランチェスコが15歳のときにカプチン会に入会し、ピオという修道名を受けた。

 修道会で勉学に励んだ後、1910年司祭に叙階された。彼は聖痕を受けた聖人として有名であるが、それは、1918年9月20日のミサ後に感謝の祈りをささげているときだった。ピオ神父の前に現れたイエスの手足には傷があり、その示現が終わると、神父の手と足にも聖痕が現れた。

 ピオ神父が聖痕を受けてから、多くの人びとが彼のもとにやって来た。毎朝5時にささげるミサにはたくさんの人が集まり、時には一日に10時間も告解を聞いた。告解をする人がくわしく言わなくても、彼はその人がどのように生活しているかを知っていた。

 ピオ神父は聖痕の痛みとともに断食や徹夜の祈りをささげて、厳しい生活を送った。ミサと聖体を大切にし、ロザリオを決して手から離すことはなかった。多くの人がピオ神父の取り次ぎによって、恵みや病のいやしを受けた。彼のミサにあずかった人は熱心になり、興味本位で神父に会いに来た人も、心を動かされた。

 1968年、足が弱ったため車椅子を使いはじめ、同じ年の9月23日、ロザリオを手にして、「イエス、マリア!」と唱えながら、平和のうちに生涯を終えた。81歳だった。

 1999年に列福され、2002年没後34年という異例の早さで、列聖された。

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◆真 理 を 買 え

2016年09月23日 09時24分21秒 | 聖書

真理を買え。それを売ってはならない。
知恵と訓戒と悟りも。       (箴言二三23)
 
私は、このことばを読んですぐ、イエス・キリストのなさったたとえ話を思い出しました。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ一三44)。持ち物全部を売り払っても買いとるべき、人生の宝とは何でしょうか。イエス・キリストはそれを「天の御国」と言い、この箴言では「真理」と言っています。
岡井久子さんという方は、現代のヨブとでもいうべき方です。脳性麻痺とてんかんと筋ジストロフィーの三つの病気を負っておられます。幼い時に父に捨てられ、唯一の友だった亀にも死なれ、ただ一人のたよりだった母親にも先立たれました。天涯孤独となって、施設のベッドに横たわるだけの人生でした。
ところが、この岡井久子さんが病床で、一つの真理を発見したのです。神がいらっしゃる。神が愛していてくださる。私を生かして、尊い使命を与えていてくださる。やがて神が、苦しみも暗やみも涙もない、永遠の輝く御国に自分を連れていってくださる。――キリストにあってこの神の愛の真理を見いだした時、岡井さんは絶望をふりすてて、希望を手にしました。うらみや嘆きに代えて歌をとりもどしました。無為に過ごす代わりに、祈りを与えられました。病床でつづった数々の輝かしい詩は、『ヨブの涙』という本になって出版され、療養者文学賞まで獲得しました。イエスが言われたとおり、岡井さんを「真理が自由にした」(ヨハネ八32参照)のです。
この無上に尊い真理は、金や努力や知識で買うのではありません。神なき自我の道からまわれ右して信じるという、悔い改めと信仰という値を払えば、金なくして、だれの手にも入るものなのです。
 
 
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◆神はその愛する方によって私たちを受け入れてくださった。

2016年09月23日 09時23分26秒 | 聖書
(エペソ一・六英訳)
 
なんという特権だろう。これは神の御前における私たちの義認を含むだけではない。ギリシヤ語の「受け入れる」ということばは、それ以上の意味をもつ。神の満足の対象であること、否、神の喜びの対象であることをさえ意味する。私たちは虫であり、死すべき者、罪人である。それなのに神の愛の対象となるとは!
ある信者は、その経験において受け入れられているように見える。少なくとも、彼らはそう理解している。たましいが力に満ち、希望に燃える時、神に受け入れられていると思う。そのような時、自分が高潔であり、聖化され、俗事をはるかに超越しているように感じるからである。しかし彼らは、ちりあくたのようなものに心ひかれる時、もはや受け入れられていないのではないかと恐れおののく。けれども彼らが、彼らの崇高な喜びは彼らを高めもせず、失望落胆は彼らを低くするのでもなく、常に完全にして、傷も汚れもない神の愛する御子によってのみ受け入れられていることを知るならば、どれほど幸福に満たされ、また救い主をあがめることであろう。
だから、主にある友よ。喜べ。あなたは「愛する方によって受け入れ」られている。あなたは心のうちをながめて「受け入れられる何ものもない」と言うであろう。しかし、キリストを見よ。そこにおいてすべてのものが受け入れられていないか。あなたの罪はあなたを悩ます。しかしその罪を、神はご自身の後ろに捨てられた。あなたは義なる方によって受け入れられている。あなたは腐敗と戦い、誘惑と格闘しなければならないが、すでに悪の力を征服した方にあって受け入れられている。悪魔は誘惑するだろう。しかし、雄々しくあれ。悪魔にはあなたを滅ぼすことはできない。あなたは、すでにサタンの頭を砕いた方にあって受け入れられている。あなたの栄光ある地位を確信をもって知れ。すでに栄化されたたましいは、天国で、「愛する方によって」受け入れられている。そして全く同様に、あなたはキリストにあって受け入れられている。
 
 
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ヨブ記7章7-21節

2016年09月23日 09時22分15秒 | 聖書


7:17 「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。
7:18 また、朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは。
7:19 いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。つばをのみこむ間も、私を捨てておかれないのですか。」



 ヨブは神様につぶやきます。

なぜあなたは、私に目を注ぐのですかと。

しかも、それはまるで監視人のように、と。

自分のすべてを見て、私がまるで神に悪しき働きを行っているような者と見て、私を苦しめています。

ですから、私を放置しておいてください。

私に目を留めないでくださいと、こう願うのです。

それなのにあなたは人に目を留め、また朝の訪れる度ごとに、私を試されるというのです。

放置しておいてください、というのが彼の願いでした。

彼は、苦しみが神からもたらされ、それが、自分が犯した罪によっていることを覚えました。

しかし、私は小さい者です。

ですから、このような者に関心を持たないでくださいというのです。

ヨブは苦しみのあまり、神の愛の目を見ることができなかったのです。

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ガラテヤ人への手紙4章28-29

2016年09月23日 09時20分19秒 | 聖書


★兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

■O:今日のコラム
ハレルヤ!私たちはイエス様によってイサクのように約束の子供です。聖書には、たくさんの祝福が約束の子供たちに約束されています。その祝福に私たちは預かることができます。
しかし、私たちは同時に日々迫害にあっています。
誰によってですか?

自分の肉によってです。

今日のみことばに、「しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。」とありますが、私たちは皆、かつて肉によって生まれてものです。

しかし、私たちがイエス様と出会い、御霊によって生まれたとき、私たちは、新しい人となり、肉のものではなくなります。

しかし、今でも「肉によって生まれた者が御霊によって生まれた者を迫害」しているのです。私たちは、御霊によって歩もうと思っても、肉が邪魔をします。迫害してきます。

明日読む箇所には、御霊と肉の性質が書かれていますが、私たちは御霊の性質に変えられようと願いますが、肉が日々、無理だといい、ひっぱります。
しかし、私たちは、引き続き、肉に負けず、御霊に引き寄せられ歩んでいきましょう。
けど、皆さん、迫害されたとき、イエス様はどのようにそれに対処しなさいって言われましたか?

マタイ5章12節
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。

これは、実際に迫害されたらということですが、私たちのこの迫害についても、喜んで対処していけるのではないでしょうか?なぜなら、イエス様は、この迫害に勝利された方。また、私たちがこの肉に負けず、御霊に従うことを選び続けるなら、私たちには、報いが必ずあります!!!


■A:考えてみよう
諦めずに御霊によって、御霊に従って生きていきましょう!喜んで従っていきましょう!喜んで肉を捨て、御霊と歩んでいきましょう!!約束の子供として。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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9月22日(木)のつぶやき

2016年09月23日 01時34分27秒 | キリスト教
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