座間コミニティー

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民数記22章18-20節

2012年09月29日 09時12分31秒 | 聖書

22:20 その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」


バラムの心は、先には行かないと言ったことでありまして、如何に銀や金で満ちた家をくれたとしても行かないと言いました。

しかし、彼の心の内は違っていたようでした。

そして、もしこのような神の言葉がなかったならば、自分は行きたいと思っていたようでした。

そうすれば、こうした金銀を手に入れることができると思ったからです。

バラクの言ったことに、魅力を感じていたのです。

 その心を見抜いておられた主は、彼に、彼等が招きに来たのであれば一緒に行けと、言われました。

しかしその時にも、語るべきことは、主が命じたことのみを語れと言われたのです。

主は人の心の内にある思いを見抜かれて、その人の思いに従っていくことを、時に許されることがあります。

しかしそれよって、結果的には、多くの時、その人にとってはつらい経験となることを見るのです。

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民数記22章15-17節

2012年09月29日 09時10分29秒 | 聖書

22:17 「私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。」


バラムは主の言葉と命令を受けて、バラクから遣わされた人々に事情を語って、彼等を帰しました。

ところが、あきらめきれないバラクは、今度はさらに多くの人を使いに出しました。

その人々は、身分の高い人々でした。

そして彼に告げたことは、もしあなたがイスラエルの民を呪ってくれたならば、望み通りの報酬を与えるということでした。

彼にとっては魅力的なことでした。

しかし、彼には、神ご自身が彼に語りかけられたという事情がありました。

ですから、その主が呪ってはならないというのですから、そのようなことはいくら報酬を高く積んでくれたからといって行うわけにはいかないと、告げました。

彼にとっては、人よりも主の方が真に力のある方ですので、恐れを持ってその言葉に従わざるを得ないことを告げていたのです。

神の現臨が彼をして、人や人の報酬よりも、神と神の御心に従うということの方を選ばざるを得ないようにさせたのです。

神の力が、彼を恐れさせたのです。

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◆見 た も う 神

2012年09月29日 08時59分33秒 | 聖書

もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言二四12)

神が見ていらっしゃる。――これは、何という単純で明快な真理でしょう。ある男が子どもを見張りに立てて、スイカ畑に盗みに入りました。「だれかが来たら、すぐ知らせるんだぞ。」しばらくすると、「お父さん、見ているよ」と子どもが呼びました。「だれが見てる。」「神さまが見てるよ。」すると父親が、「ばか。神さまに見えるもんか」と言ったという話があります。「天網恢々疎にしてもらさず」「天知る地知る我知る」とも言われます。この単純な真理ほど、実際の生活で無視されている真理はないでしょう。
私の尊敬するマックスエル博士が話してくださったことです。「子どものころ母に教えられた『ご覧になる神』(創世一六13欄外注)という聖書のことばは、初めは恐ろしかった。しかし年月がたち、この真理の深みが分かるにつれ、この真理が平安で喜びにあふれた私の人生をつくりあげたのだと思う」というのでした。
神に背いて、自分勝手で、いんちきで、言いわけばかり言う二枚舌の偽り者にとって、神は恐ろしいお方でしょう。しかし、落ちこぼれた者・悩んでいる者・弱く失望している者であっても、正直に自分の弱さやみにくさを認めて神に目をあげる者にとって、神は何と優しく、慰め・ゆるし・励ましに富んだお方でいらっしゃいましょうか。
神は、何でも見抜き、何でも正しく評価なさいます。しかし神に身を寄せるあなたにとって、神は、見守ってくださるお方、その愛と恵みを傾けて報いてくださるお方なのです。神を敵として勝ち目はありません。神をあなたの心の父としてごらんなさい。

 

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◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、

2012年09月29日 08時57分51秒 | 聖書

祭司はその患者をきよいと宣言する。(レビ一三・一三)

この規則は一見奇妙だが、その中には深い知恵が隠されている。なぜなら病毒を外に出すことは、からだが健全な証拠だからである。今朝、この奇妙な規則の象徴的な教えを学ぶことは、私たちに有益であろう。
私たちもまた病者である。そしてこの病に関する律法は、私たちにも適用できる。人が自分を全く失われた破滅した者と見、全身がことごとく罪におおわれ、義であるものが一つもないことを知って、主なる神の前に罪があると告白するならば、イエスの血と神の恵みによってきよめられるのである。心中に隠れていて感じることのない告白されない罪が、真の病である。しかし罪があばかれ、罪が感じられた時には、すでに罪は致命的打撃を受けており、主はあわれみの目をもって罪に苦しむたましいをご覧になるのである。
自己を義とすることほど致命的なものはなく、悔恨よりも望みのあるものはない。私たちは罪以外の何ものでもないことを告白しなければならない。これ以下の告白は真実のものと言うことができないからである。もし聖霊が私たちに働かれて、罪を自覚させられれば、前述のことを認めるのに何の困難もない。
引用の聖句は、深い罪の意識のもとにある人に、なんという慰めを与えることだろう。どれほど黒く汚れていても、嘆き悲しんで告白された罪は、決して人をイエスから閉め出すことはない。主イエスのもとに来る者を、だれであろうと神は決して拒まれることはない。犯罪人のように不正直であり、罪を犯した女のように不貞であり、タルソのサウロのように凶悪であり、マナセのように残忍で、放蕩息子のように反抗的であっても、自分によいものが全くないことを感じる人々には、神の愛が注がれる。そして彼が十字架につけられたイエスを信じた時、きよい者という宣告が与えられる。それゆえに、主のみもとに来れ。
「来れ。乏しき者。来れ。罪ある者。そして忌まわしき裸なる者よ。おまえは決して汚れすぎてはいない。あるがままの姿で来れ。」

 

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