拡張型心筋症で休職中

~社会復帰できるのだろうか?~

人身事故の顛末

2013-08-05 11:13:32 | 日記
1月9日8時10分。
デイサービス送迎車両を運転中の私は、宮前区の某交差点に差し掛かっていた。
とてもキツいコースで他のドライバーは時刻通りに回れず遅れが出るが、この日の私は不思議なくらい順調だった。
次のKさん宅まで5分あれば到着する。
到着予定時刻は8時20分。
私は自然とアクセルを戻し制限速度まで落とした。
その交差点は坂の頂上にあり、交差点の向こう側は再び下り坂になっている。
信号機は無い。
坂を上りきる寸前、赤いランドセルの少女が車道に飛び込んできた。
最善は尽くしたが、間に合うはずがない事は明白だった。
交差点を遥かに通り過ぎて停車、車から飛び降りた私は恐る恐る後方に回った。
誰もいない。
車の前に回り込む。
女の子が仰向けに倒れていた。
自分の携帯で救急車を呼んだ。
警察にも電話した。
救命行為は敢えてしなかった。
意識不明で仰向けに倒れている人間に触れて良いものなのか判断できなかった。
野次馬が駆けつけ、倒れている女の子に呼びかけるが返事は無い。
「毛布は無いのか?」
と、私の胸ぐらを掴む男もいた。
「これ使ってください」
と、着ていた上着を脱いで差し出すと剥ぎ取るように奪われた。

やがて救急車が到着した。
ここからが長いのは予測出来ていた。
次のKさん宅で待機している同僚に連絡した。
「事故った、詳しく説明する時間が無い、もうすぐそこまで来ているけど、そっちへは行けない。悪いけど後を頼む」

救急隊員に説明を求められた。
ありのままを話した。
説明は終わったが、救急車は発車しない。

次に、警察の検分が始まった。
担当の警官は冷静に私から状況を聞き出し、淡々と解析していく。
①私の視界に突然女の子が入ってきた
特別に注意こそしていなかったが、決してわき見もしていなかったと強く主張した。
②なりふり構わず全力でブレーキを踏んだ
タイヤ痕は無く、キレイにABSが作動していた。
③速度超過は無かった
フロント部に半分乗り上げる形で引きずられた女の子の、靴のかかとと思われる跡の長さを計算すると、私の証言通り40キロしか出ていなかった事になるらしい。

救急車が動き出し、野次馬もいなくなった。
警察の検分が続く中、無言で道路を眺めていた。
チョークの跡、発見した地点、衝突した地点、停止した地点……どこにも血痕は無かった。
外傷は無いにもかかわらず意識が無い。
かえって不安が増す。

検分が終わり、この場を離れて良いと許可が下りた。
自動車運転過失傷害罪に該当するであろう事、そして詳しくは改めて連絡するので、その指示に従う事、それだけ確認し解放された。

施設に戻り上司に報告、そして本社へ向けての事故報告書を作成し、それに基づいて保険会社に連絡した。

夕方、担当の警察官から連絡が入った。
真っ先に被害者の容態を尋ねた。
手術が終わり意識も戻った、との事であった。
月末に事情聴取を行うので再度連絡を待って待機するように、と言われ電話を切った。

その事情聴取は延び延びになり、2月21日13時から宮前警察署で行われた。
事故当日の検分の確認をしながら書類が作られていく。
最大の争点は「被害者の飛び出しの発見」が遅れた事。
何度も何度も確認された。

書類の作成が終わり、担当官に質問は無いか?と問われたので2つある、と答えた。
まず、被害者の詳しい状況を訊いた。
頭蓋骨骨折、脳内出血、左大腿骨骨折。
頭部には傷跡が残り、大腿骨にはボルトが入っている。
そして、その頭部の傷が今後、思春期から結婚適齢期にかけて影響する事を母親が盾に保険会社と争っていると聞かされた。
2つ目は、目撃者の1人が私の味方をしてくれる、と言ってくれた件。
信号機の無い交差点、通学路での朝の時間帯、交通誘導するPTAがいたにもかかわらず発生してしまった事故。
PTAの怠慢が原因だとその目撃者である男性は私を励ましてくれた。

なるほど、と興味を示す担当官。
何やらメモ書きをし、来月上旬に検察から出頭命令が下るだろうから、それに従うように言われ終了した。

検察からの出頭命令がなかなか来ず、代わりに所轄から再度事情聴取をすると呼び出された。
新たな疑問が浮上し、書類が検察に回る前に上司がストップをかけ差し戻したと説明された。
被害者の交差点横断の進路が不自然である、との事であった。
前回作成した供述書では説明が付かない点があるらしい。
坂を下り切った地点に校門があり、そこの交差点には信号機が設置されている。
しかし、朝の忙しい時間帯に信号待ちする余裕の無い児童、言い換えれば遅刻すれすれの児童は「正門前」の交差点を避け、1つ前の交差点を横断する事になる。
その交差点がかねてから悪名高き見通しの悪い交差点で、事故が後を絶たない事からPTAが立ち上がり、その交差点の安全保持に持ち回りで当たっていたわけである。

そのPTAの担当時間は7時30分から8時00分。
私と被害者がその交差点に差し掛かったのが8時10分。
目撃者によると、黄色い旗を持ってお喋りに夢中になっている父兄が数名いたらしい。
井戸端会議の真っ最中の近所のおばちゃんたちの目をかいくぐり、何とか遅刻しないで滑り込みたい女の子は、不自然な角度で交差点に進入、その結果として私の発見が遅れ衝突したのではないか?憶測であると前置きをし、意見として述べた。

こんな憶測しか私には無いのかと思うと、頭の中は真っ暗になった。
どう考えても私の責任は軽くならない。
旗持ったおばちゃんを裁く法律は無いのだから。

施設会議でこの事故の話題が取り上げられた。
私が取った行動の説明を求められたので、全体重を載せてブレーキペダルを踏み抜いた事、その結果としてABSが作動したのでステアリングを真っ直ぐに保持した事、だから最短距離で制止出来た事、救急車~警察~合流する予定であったスタッフを通じて会社~保険会社の順に連絡した事を報告した。
管理者は言った。
歩行者を避けきれない場合はハンドル切ってガードレールか電柱に激突して、と。
自損で済むでしょう、笑みを浮かべながらハッキリとそう言った。

4月に検察から出頭命令が下った。
争点はただ一つ、なぜ発見が遅れたのか?
調書は回っている。
新たな言い訳を生み出す事が私を有利な立場にするとは思えない。
何度この説明をすれば良いのだろう?
現行犯銃殺の方がありがたいとさえ思えた。

検察官から「免許取り消し」「罰金は約40万円」これで刑事責任と行政処分は終わる、後は被害者とそのご家族への民事賠償であると説明された。
県警からの出頭命令に備えながら、罰金の準備も進めておくようにと指示された。

数日後、前回の担当検察官から連絡があった。
もう一度話を訊きたいから連休中に来てくれないか?
5月2日に出頭した。
事故現場である坂の頂上に向けて、「この先横断歩道あり」「飛び出し注意」「事故多し」「通学路に付き注意」という「注意を促す表示」が複数ある事実を写真で見せられ、これについてどう思うかを尋ねられた。
不利になる事を覚悟の上で、正直に話した。
「この先横断歩道あり」の道路表示に関しては漫然と見逃した。
これは言い訳出来ない私の落ち度である。
しかし、数々ある注意を促す系の表示については正直見向きもしていなかった。
「一時停止」等の赤い標識は認識して従うが、青系の「横断歩道あり」は通過する際にいちいち認知していたら運転出来ない、半ば逆切れ的に訴えた。

5月29日、県警に出頭した。
1人ずつ呼ばれ、罪状を読み上げられ、反論がある場合は述べる権利を与えられる。
何も反論せずに全面的に認める人もいる一方で、明らかに自己中心的な言い訳をする人もいた。
私の番になり、何か言いたい事はありますか?と尋ねられた。
腹を括って私は強い口調で堂々と自分の考えを述べた。
今回の事故は私の過失であり、言い訳の余地も無く、自動車を運転する資格を剥奪されて然るべきと思います。
反省しております。
ただ、正直「疑問」も残ります。
PTAの方々による交通誘導が必要な程とても危険な交差点であると地域的に認識されていた事。
それにもかかわらず、8時で役割から解放された父兄の目を盗む形で被害者は飛び出した事。
いくら8時までと決まっていたとしても、その場でくだらないお喋りをしていたのなら、出遅れて急いで走ってきた児童を守るのが本来の役割なのではないか?
それすら出来ないのであれば、当該交差点に信号機を設置して然るべきではないか?

理論立てて巧く主張出来た手応えは感じた。
県警の担当官は言った。
善意のボランティアで集まって下さっているご父兄に対して、アナタの今の利己的な発言は、とてもではありませんが伝えられません。
事故を起こした自分よりも、飛び出しを防げなかった側を非難しているのですよ?
もう少し、真摯に受け止め反省するべきではありませんか?

PTAを裁く手段が無い事を痛感し、精一杯強がって最後の言葉を発した。
先程も申し上げました通り、この事故の責任は全て私にございます。
私がそこから少しでも逃れようと映ってしまったのであれば、全てを撤回致します。
どうか記録に残さないで下さい。
ただ、私が申し上げたかったのは、この事故を教訓として何か変えないと、同様の事故が起こりかねないと思うのです。
担当官は言った。
それはアナタの考える事ではありません。

6月中旬締切の罰金の振込用紙が届いた。
ありとあらゆる金策をし、刑事責任と行政処分は終わったが、被害者とそのご家族への直接の謝罪がまだ済んでいない。
確かに保険会社は治療に必要な金銭だけではなく、通院にかかる交通費、それに伴う母親の休業補償等を速やかに支払っているので、その点に関しての不満は被害者側から出てはいない。
しかし、事故直後に被害者側が私の謝罪を執拗なまでに拒んでいた事については、保険会社は何も動いてはくれない。
会社もいつの間にか、私と被害者との個人的な問題にすり替えてしまっている。
事故直後から、対応のいい加減さに退職を決意していた私は、いない事を確信した上で日曜の終業後に本社へ事故対応係宛てに電話を入れた。
案の定、そんな係は存在せず、明日一番で社長から所属施設へ連絡する、と回答を得て電話を切った。

この補償問題が解決するまでは会社を辞められないからね、そう釘を刺されていた私は、その言葉を逆手に取る事を決意した。
早速翌日、午前中に施設管理者に呼ばれ、事故の件で社長から連絡があったけど、何かあったの?
待ってましたとばかりに畳みかける私。
先方はかなりの長期戦の構えのようなんです。
脳の障害は医者も分からないみたいで、現在は記憶も戻り通学していますが、今後将来的に何らかの形で障害が出ないとは断言出来ない、と被害者寄りの立ち位置です。
大腿骨もボルトが取れず、当初は春先に取る予定だったのですが、延期に次ぐ延期で、現在の見通しでは早くても秋になると……。
そうなると私はこのままずっと、この事故を背負って仕事をしなければならないのでしょうか?
例えば、加害者の私と被害者のご家族との間で「気持ちの整理」がつき、残る金銭的な問題を保険会社にお願いする、という事で私にとっての事故処理は終了とはならないものでしょうか?

管理者は言った。
保険会社は何て言っているの?
脳の問題は恐らく大丈夫で、最悪「お金の話」で短期決着つけられる、と言ってました。
ただ問題は脚のボルトで、痛みで動かせない左足の成長が右足の成長と大幅にズレ始めていて、除去手術のメドが立たないらしいです。
だから、その点だけ慎重に対応すれば、後は事務的に進められるって。
更に管理者は続けた。
じゃあ、アナタが菓子折り持って謝罪に行くのが重要じゃない?
強い拒否喰らっているんでしょう?
そうなんです。
そこで提案なんですけど、直接出向いての謝罪が巧くいったら、私この一連の件から抜けても良いですか?

それからというもの、熱心に被害者側とコンタクトを取り続け、保険会社も知り得ていない情報まで入手し、念願叶い7月3日にお会いして頂ける事となった。
時間を費やし丁重に謝罪をし、お嬢様のお加減を伺わせて頂き、保険会社の対応で困っている事が無いか確認した。
事前に想像していたよりも暖かく接して下さった。
ひょっとしたら、警察や検察、病院から死亡事故になり得たケースである事と、私の制御技術の高さを伝えて下さっていたのかもしれない。
秋頃に再びお見舞いに伺わせて頂く約束までしてくださり、無事に謝罪は済んだ。

翌日、管理者に報告し、管理者の口から事故処理の終了を発せさせたのち、退職届を提出した。
根本的に私のワガママの部分が大きいので、届けの処理については管理者に一任する事、並びに後任が定着するまでは所属し続ける覚悟は出来ている事を告げた。

それからの毎日は、私が所属する組織に必要なのかどうかばかりを考える日々が続いた。
利用者様に心から笑って頂く能力に関しては、少し自信がある。
新規の利用者様で引きこもりの方がお見えになり、当然のごとく帰宅願望が強いため、スタッフ全員がお手上げで、ご家族にお迎えに来て頂いた利用者様。
誰もが一回限り、と思っていたのだが、翌週も仏頂面ではあるがご来所して下さった。
ここで行かなかったら男じゃない。
先週の初対面時に2、3言交わせた会話を少しアレンジして接近し、違和感無く隣に着席出来た。
運良くこの日のレクは少人数に別れて行っていた。
私達2人と、私と気心の知れた利用者様2人と、変に染まっていない新人職員と5人で何をする訳でもなく、ただただ楽しくお喋りをして過ごした。
勢いとは恐ろしい物で、好転の連続。
その利用者様はとても楽しそうに自慢話をして下さった。

「帰りたい」という気持ちを完全に忘れて下さり、送迎車両にも私が添乗し、2人で笑いながらご自宅へ到着したところ、ご家族は腰を抜かさんばかりに驚いていらっしゃった。
帰社後、どんな魔法をかけたんだ?という他の職員からの質問に
「私1人じゃ無理だと思って(利用者の)TさんとFさんに手伝ってもらったんです」
と平然と答えた。
翌週もその利用者様の対応をさせて頂けると思っていたが、急遽「公休」となった。
そして私の代わりに対応した職員が、結果的に火に油を注ぐ形になり、長時間の徘徊に付き添い、挙げ句の果てに疲労から施設へ戻れなくなり、車を呼び、そのままご自宅まで送って行ったと、後日介護記録を読み知った。
管理者以外の職員は全員が、慣れて頂けるまでは私が対応するべきだと考えていたらしいが、管理者は、ここで私が突出する事を許さなかった。

この状態で、管理者に一任した私の進退が「慰留」という形を迎えるはずもなく、しかもその一件からは所属する施設から他の施設へヘルプで出され続けた。
たまに所属する施設での勤務があっても、管理者が公休であったり、管理者がいても休憩時間をずらされたり、と言葉を交わす時間は用意されなかった。
7月27日、入社希望の男性が、採用条件をクリアした直後に管理者は私を呼んだ。
どうする?
私は正直言うと、今この時期に完全な退職となると一長一短の面があるので、決断出来ずに曖昧に言葉を濁した。
7月30日、公休だった私のもとへ管理者から電話がかかってきた。
明日で退職で良い?
私は笑いをこらえながら
はい
と答えた。

こうして私は自動車運転過失傷害の前科一犯となり、苦労して取得した大型自動車運転免許証も取消処分で失ってしまった。
持病の心臓の調子も思わしくなく、早速の通院のため国民健康保健に加入するべく区役所へと向かったが、離職証明書が間に合ってないため手続きに時間が掛かり、その上、本人確認が出来ないため郵送での受け取りとなった。
運転免許証以外の身分証を待たない私も悪いが、いくら取消処分だからとはいえ何も取り上げる必要は無いのでは?と思ってしまう。
身分証代わりに所持していたかった。

1年経ちました

2012-04-27 21:43:21 | 闘病
転職した。
認知症完全対応小規模デイサービス。
持病の「うつ」のため、完全に腰が引け、早くも「出社拒否」を表しているが、日曜日は仲良くなった利用者Tさんがいる。
彼女は「失語」のため煙たがられていたが、私は無知がゆえの親近感を抱いたために結果として超密接な関係を築いた。
Tさんに会う事を「楽しみ」として考えられたとするならば、その前日の土曜日の苦痛にも耐えられそうな気がする。
そうすれば、後は残った5日間のうち休日を差し引いて3日だけ耐えれば良い計算となる。
頑張れ、自分!

5月13日受診

2011-06-11 08:13:17 | 闘病
おはようございます。

退院後初の診察は5月13日でした。
採血とレントゲンとエコーの検査を済ませ、待ち時間に精神科の受診をしました。
今まで通っていたクリニックへ戻るかどうかを尋ねられましたが、循環器内科のあるこの大学病院へどうせしばらく通うのだから一本化したいとお願いしました。
「では」
という事で一から検査やテストをする事になり、早速1つテストを行い、1つは持ち帰り、3つめの『ロールシャッハ』は改めて予約をしました。
循環器内科では、入院当初(4月上旬)と本日のレントゲンを比較して見せてくれました。
素人目にもハッキリと分かる『心臓の大きさの違い』でした。
このまま7月末まで安静、もちろん『飲水制限(1000ml/日)』『塩分制限(6g/日)』は継続です。
次は精神科は2週間後、循環器内科は4週間後です。

退院

2011-06-06 11:52:09 | 闘病
おはようございます。

カテーテル検査が終われば、あとは通院治療ですから退院です。
4月30日の午前中に退院しました。
その足で床屋へ行き、職場へ挨拶へ行きました。
みんな笑顔で迎えてくれましたが、何となく私の居場所はもう無いような気がしました。
新しいスタッフもいました。

ドロドロとした『うつ』との闘いの始まりです。

循環器内科その4

2011-06-04 15:24:01 | 闘病
おはようございます。

カテーテル検査です。
4月26日でした。
準備万端整って昼食抜いて待っていると
「痛いのは最初だけですから」
と看護師さん。
「むしろ、ここに戻ってきてからの方がつらいみたいですよ」
止血のため6時間身動きが取れないそうです。

検査が終わり、病室へ戻ってきて血圧を測ったのが14時でした。
20時までの辛抱と思って我慢していました。

19時にラウンドに来た看護師さんに
「あと1時間ですね?」
と弱々しく話しかけると
「22時って引き継いでいますけど……」
と返答がありました。
「そんなバカな!」
と思いましたが、ここでゴネても通りません。
22時の3分前にナースコールを押して、駆けつけた看護師さんに
「もう限界です」
と言い解放してもらいました。

きつい1日でした。