FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

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トルストイ 『復活』 ~ 悲運の美女とわが悔悛の日々

2014-09-03 01:57:01 | 文学・絵画・芸術

 君は若い日に一度でも、悲運の境遇にある美しい女性を、自分の手で救ってやろうと思い抱いたことはなかったろうか。

 僕にはある。まるで、それが自分の使命であると感じ、そうすることで自分の正義なり思想が完結するとして、それでもう死んでもいいと思ったりした。自分がその女の救世主であるかと幻想したのだ。実際は人のために死んだりなんかできず、ただその女性と愛し合って一緒に生きていくことさえできればなあ、なんて考えていただけなのだ。しかもそんな悲運の美しき女性ですら、まだ見ぬ、自分がつくりだした幻影にすぎなかった。

 仮にそういう女性が現れたりしても、その悲惨な現実に押しつぶされ、何もできない自分がいただろう。

 トルストイは、『復活』一作を書いただけでも偉大な作家として名を残しただろう。トルストイといえば『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』の大作がある。『戦争と平和』は、就職前になんとか読み終えたが、長すぎて退屈したのを覚えている。『アンナ・カレーニナ』は3年ほど前に読んで、その面白さがやっとわかった。

 その点、『復活』はすぐに入り込めた。僕は自分が青年侯爵ネフリュードフとなり、悲運の美女カチューシャをずっと思い続け、やっと会えたという気がした。といっても、ネフリュードフのように、叔父夫婦の家にいた下女を誘惑して孕ませたということはない。でも不思議なことに、男はこういう話が出てくると、何か一つ駒の位置が違っただけで自分もそれを犯してしまったかもしれないという現実的な錯覚に陥る。

 カチューシャ(マースロワ)は、青年ネフリュードフの子を身ごもって女中として働けなくなり、ネフリュードフの叔父の家を追い出されて娼婦となる。数年後、身を持ち崩したカチューシャは事件に巻き込まれ殺人罪の宣告を受け、シベリア流刑となる。その裁判の陪審員席には、若き日にカチューシャ本人を一時は恋し誘惑したネフリュードフがいた。しかも彼自身が同席した裁判の判決は、手違いにより無罪の彼女を有罪と誤審したのだ。ネフリュードフは無実の罪を晴らし、カチューシャを救うことに生涯をかけると誓う――。こういう舞台がそろってしまうと、青白き文学青年でかつて恋愛に焦がれていた僕なんぞは、この歳ですっかりまいって、のめり込んでしまうのだ。

 それは、男のロマンティシズムである。しかし、女はリアリズムの中で生きている。だから、単なる純愛主義で彼女を救うなどというのは、女にとってこれほどうっとうしいものはない。女には、そんな男の性根がわかるのだ。

 カチューシャにとって、自分が生きる現実の世界はそんなに簡単に変えることはできない。ぎりぎりの現実の世界を生きている。ネフリュードフは生涯をかけて償いをする覚悟だが、それは彼自身を根本的に変えてしまうことになる。

 じつはこの物語自体、作者が実話を聞いて書いたものであるが、トルストイ自身が若き日にこの小説と同じ罪の体験をしたという告白がある。僕ら(読者)がこの小説に共感を覚えるのは、だれもが犯しやすい罪と、のちの人生にその被害者の運命を見た時の悔恨からくる贖罪感だと思う。

 このカチューシャの物語を通して、トルストイは当時の社会に対する批判をも描いている。それがカチューシャの不幸を現実感をもって浮き彫りにしている。カチューシャだけではない。低い階層と貧困というそれだけのために、同じ過ちであっても普通の階層の人より大きな罪として背負わされ、不幸の底に堕ちていく。僕らはそれが、今生きている現実の中で起きていて他人事でないような思いがしてくる。

 カチューシャは、ネフリュードフを今も愛していた。しかし、彼の申し出(罪人とされた彼女と結婚すること)を受け入れることはできない。彼の一生を台無しにしてしまう。それゆえ、彼への思いを断ち切って流刑地に向かう。結局ネフリュードフは、自分が彼女にとって必要でない存在と悟り、その事実を受け入れることで世の人々の苦しみに眼を向け始める。聖書マタイ伝に眼を開かれ、新しい行動に一生を捧げようと思う。「復活」とは、魂の救済のための新しい出発である。

 青春期にこれを読んでいたら、ネフリュードフとカチューシャの悲恋の物語として心に残っていたかもしれない。しかし今の僕の年齢で読むと、カチューシャの運命もそうだが、彼女を取り巻く、貧困ゆえに罪を犯さざるを得なかった善良な心を持つ人間たちの悲劇が身に沁みてくる。

 今の日本でも、ひとたび貧困に堕ちてしまうと、不運の中で一生を生きていきかねない。本当にそれで魂は救われるのだろうか。 



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