FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

ターナー展『レグルス』 ~ 焦熱の光とエネルギー

2013-11-21 01:00:36 | 文学・絵画・芸術

 

                                         ターナー『レグルス』

 発光する眩(まばゆ)さ。それは光るという言葉では表現できない。焦熱といっていい。まさに光が破裂した感じである。光の線や破片は、海の上にとび、侵入し、建物や人々を明確に、光と影に分けている。

 ターナーは、なぜこんな絵を描いたのだろう。それほどまでに、強烈な光に魅せられていたのか。初めてこの絵を見たとき、これは海難事故か、大津波、あるいは戦(いくさ)の後の光景かと思った。大洪水の後のすさまじい光 ――。

 それは、光というには、火のような熱さである。天地が今始まったような眩しさである。このような悲劇を描く画家がいたのか。波は寄せ、建物は浸り、救命ボートの上で、人は抱擁し、泣き叫ぶ。どこへ避難するかもわからない人々の嘆き。――あの、3.11の大津波を思い出した。 

 絵の名は『レグルス』。

 災害でないと知った。将軍レグルスの話だ。衝撃だった。ターナーは、なぜこんな絵を描いたのだろう、と何度も思う。カルタゴとの戦で敵国に捕虜になった将軍レグルスは、拷問で瞼を切り取られ、地下牢の暗闇に幽閉されていた。闇から引きずり出され、いきなり光明にさらされて眼の光を失ったレグルス。その姿を探したが、この絵のどこにもない。これは、レグルスが陽光を見た瞬間の光景である。瞼のなくなった眼球が突然の光で破壊される瞬間の、その眼球の奥に残像となって残った光のエネルギーなのだ。

 瞼があれば瞼を閉じ、手があれば手をかざしただろう。しかし、瞼もなく、手も縛られ、電光よりも大火よりも数十倍強い光が大気中に発射され、全身浴びる光の放射。・・・・こうした思いで見ると、その場から一歩も動けない自分がいる。

 ターナーは、光の画家である。空をよく描く。これほどに空を描き分けられる画家はいない。一色の空などありえない。色彩がさまざまに変化するのは、光そのもののせいだろう。光により色は変わる。それは海も同じだ。黒い海もあれば、反射する光の波もある。『レグルス』のように黄金色に爆発した光が突き刺す海もある。

 ターナーの絵を見ていると、物語の挿絵のような気がする。絵が小説を物語っている。まるで映画の一場面を切り取ったようでもある。しかし、この絵はあまりに凄絶な印象で、レグルスの逸話は怖い思いとしていつまでも心にある。



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