風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

唯識論

2006年05月02日 | 雑感

GW最中の今日、いかにも五月晴れというような空が広がっています。
明日から3日間は家にこもって決算書類の作成に取り掛かろうと思っています。

さて、仏教に唯識論というのがあります。
唯物論とか唯心論とかあるように、世界はすべて実質的に存続するものなど一つもなく、
ただ識(認識作用)があるばかりという立場です。
この論の前提には般若心経でおなじみの世界を「空」と見る立場があります。

「空」というのは何もない=虚無という意味ではなく、
何かの因(原因)があり、それが触媒的な事物と触れること(縁)により、結果(果)が導かれるような、
そしてその結果(果)が新たな因となって、縁に触れて、更なる果が生まれると言うような、
その果てしのない因果、因縁の循環が繰り返されるような場を、固定的なものは何もないという意味で「空」と言うのだと思います。

宇宙の始めにビックバンがあったとされる宇宙創造の仮説にしても、
始めに爆発するべきエネルギー(光)があったわけです。
そして「光あれ」という神の言葉の縁に触れて、それは爆発しました。
爆発は、エネルギーの渦を巻き起こし、物質を生み、銀河を生み、星星を生み、生命を生みました。
生命は死んで物質となり、土に解け、海に溶け、更なる生命誕生のための栄養素となって何かの生命体に吸収されます。
すべての物質はそういう風にして生命を通して循環します。
生命体が死ぬことによって、生命が循環するとも言えます。
しかしその生命の循環も永遠ではなく、やがて滅び、惑星も燃え尽き、塵となって宇宙を漂い、どこかの大きな重力を持った
惑星かなにかに引き寄せられ、渦を巻き、新たな星雲を作り、銀河を、星を誕生させる契機となっていくのでしょう。

話が逸れましたが、唯識論ってなかなか説明が込み入ってしまいます。
ちょっと、「空」と言う世界のイメージに役立てばなぁと思って説明してみました。

話を元に戻しますと、普通一般の認識論というのは、五感+意識の6識で説明されます。
唯識ではさらに、マナ識、アーラヤ識というのが加わります。
6識は説明するまでもないでしょうが、マナ識、アーラヤ識というのは精神医学で言うところの深層心理を
更に綿密に、正確に説明されたものです。

簡単に説明してみますと、

マナ識: 自分というものに執着する心
アーラヤ識: 生命に執着する心
 
ということです。

自分と言うものに執着すると、自分の利害と他人の利害は一致しません。
自分がよければよいと心ですね。
生命に執着すると、生命が大きな循環を描いているものであり、生命それ自体は不死であるということが実感できません。
人の命は地球より重いという言葉がありましたが、さてそうでしょうかね、ということです。

近代合理主義というのは、6識で考えるところの合理性を追求しますから、
その合理性ですべて人間の理想的なあるべき姿を追求できると思い込んでしまいました。
なるほど、意識では他人のために、環境のために、社会のためにした方がいいというのは合理的にも考えることは出来ます。
しかし、その合理性に従わない人間の深層意識があります。
それをものの見事に説明してくれるのが、マナ識とアーラヤ識です。

うーん、ここまで説明してきても、何の説明にもなっていないなぁと思うわけです。
なんか、要約して説明できる感じがしません。
一つ一つ説明を積み重ねていって、分かるようになっているのかもしれません。

ま、マナ識、アーラヤ識そのもの自体は善でも悪でもありません。
ただ表層の6識を鷲づかみするようにしてコントロールされてしまうのが人間です。

どうすればいいかと言うと、そのマナ識、アーラヤ識に坐禅などの修行や六波羅蜜などの戒律を通して
正しい種を蒔き続けることにより、6識自体の認識のあり方を変容させることができるという考え方です。

ちょっと説明には失敗しました(笑)
読んだばかりの本をさも知ったかぶりに説明しようとするからこうなります(大笑)
でも、最近一番好奇心が駆られているテーマです。

ご興味のある方は以下の本が大変分かりやすく参考になります。

「唯識のすすめ~仏教の深層心理学入門」 岡野守也

ブログもありました。

http://blog.goo.ne.jp/smgrh1992

今日はちょっと失敗した感じが強いので、とっとと帰ります

楽しい休日を!

 

 


 


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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
初めまして (もも)
2006-05-03 12:22:07
偶然読ませて頂いた者です。私が19歳頃に知り合いの知り合いで僧侶の方がいらして全国を放浪中とのことでした。私の知り合いも仏教的な考えの方で(変な言い方ですが)、「般若心経」の本を貰い真剣に読みました。が、その時感じたのは、全部、普段自分が思っていることばかりじゃないかという事でした。もちろん奥深い物であることはわかっていても基本は普段自分が思うこと、と思いました。それでも、その文庫本は大事にしていたのですが今は何処。漢字は忘れましたがタカガミカクショウと読むのでしょうか。その方の著書でした。他の著者の方ではなくその本をもう一度読みたいと思っています。長い文章で関係無いことを書いてしまったみたいですみません。これからも、じっくりと、初めの方から読ませていただきます。
こちらこそ、はじめまして (torut21)
2006-05-05 16:51:57
ももさん、こんにちわ。

ご紹介の本は、ネットで調べてみましたら、次の本ではないですか?

「般若心経講義」高神 覚昇 (著) 角川ソフィア文庫



お知り合いに実際に放浪するお坊さんがいるなんてすごいですね。

いろいろお話が聞けて、いいですね。

ぼくの場合、前世が放浪坊主だったみたいですが、今生はなんといいますか、中途半端で・・・(笑)



「空」の概念って、難しいといえば難しいし、当たり前といえば当たり前なんですよね。

それから、「空」を生きるとなると、これまた高度な話になりますし。

なんにしても、コメントいただけて嬉しいです。

また遊びに来てください。
本のこと (もも)
2006-05-06 16:28:48
どこの本屋さんで探しても見つからなかったのですが、ネットで調べられたのですね。ありがとうございました。早速購入します。
むーん (arina)
2006-08-20 12:09:28
面白いですね

参考になります、ありがとう



ひとつわからないことがあります。

マナ識とかアーラヤ識とかを

認識している意識とはなんなんでしょうね
arinaさん (torut21)
2006-08-21 18:36:36
難しい質問ですね。



マナ識、アーラヤ識を、普段の人間のいわゆる意識がそれと認識することはないと思います。

無意識を意識で認識することはできませんから。

では何でマナ識、アーラヤ識があるという仮説が成り立つかというと、

坐禅なり何なりの修行を通じて通常の意識を消すというか、働きを静めると、

マナ識、アーラヤ識に映っているものが見えてくるというか。

マナ識、アーラヤ識というのは鏡のようなものではないかと。



そこで、それではその鏡を鏡と認識する主体は何かというご質問だと思いますが、

唯識論ではその主体は何かということには言及していないように思いました。

ただその鏡を磨け、曇りを取れということだったと思います。



で、強いて言えば、魂とか霊とか、要するに肉体に宿る以前の何らかのエネルギー体が、

人間の複雑な認識システム(五識+マナ識+アーラヤ識)の背後に主体として存在しているという仮説があるわけですが、

これは唯識論の範疇を越えてしまいますしね。

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