過日、懸案であった大宮の鉄道博物館にようやく行くことができた。
Suicaで入場できるところから、もうワクワク。車体の展示、ジオラマ、鉄道の歴史、それに「日本食堂」など、それぞれに楽しめたが、お目当てはライブラリーである。
リスク・マネジメントの研究から、畑村先生の失敗学に親しみ、失敗百選の事例にもとりあげられている三河島事故の詳細を調べていたが、ネット上の資料ではどうしてもわからないところが出てきた。これはもう、図書館に行くしかない。
***
昭和37年5月3日、午後9時半頃。貨物列車の運転士は、三河島駅脇の貨物線を常磐線の本線に向けて列車を乗り入れようとしていた。当時のことなので、機関車は蒸気機関車。田端駅方向の貨物線から高架上の常磐線本線に向けて勾配を登りきれるよう、馬力が必要だった。
彼は、信号を見落とした。「青だった」と後に主張し続けるのだが、微妙なカーブの死角に入り、隣の常磐線下り線路の信号の青を誤認したと推察される。異説として、まもなく信号が青に切り替わるだろうとの見込みから信号を無視し、確信的に減速しなかったとの説もある。
いずれにせよ、貨物線の信号は赤。貨物列車は停止しなければならぬ。しかし、その認識のない運転士が操作し、傾斜を踏破するための加速度のついた貨物列車は、止まりようもなく、そのまま冒進する。
こういうときのために、下り線路に侵入しないよう、安全側線という設備が設けられている。貨物列車は、常磐線下り線路に入線する代わりに、安全側線に進入した。
残念なことに、勢いがつきすぎていたのだ。安全側線は用をなさなかった。機関車は、安全側線の行き止まりの砂利に乗り上げて脱線。すぐ右となりの常磐線下り線路を支障。この第一の事故が、悲劇の始まりである。
その数分後、常磐線下り列車が、三河島駅を3分遅れで発車。夜のことで視界が悪く、脱線していた貨物列車に衝突、脱線。すぐとなりの上り線を支障する。これが第二の事故である。
この時点での被害は、実はそれほど多くなく、下り列車の乗客に死者はなく、負傷者が20数名であったとのこと。
国鉄は、昭和26年の桜木町事故の教訓として、車両に緊急時脱出用の非常コックの設置を進めた。桜木町事故は、架線異常による列車火災事故だが、そのときは車両内部からの脱出設備がなく、車両火災に遭った乗客が逃げることができず、車両内に閉じ込められたまま焼死してしまった教訓から、乗客が車両から脱出できるよう非常コックが整備されたのである。第2の事故で停止した下り列車の乗客は、自主的に非常コックを開いて、上り線路に降り立ち始めた。
第二の事故から6分後。上り列車が、事故現場にやってくる。現場近くの信号所に列車停止の権限はなく、先に事故を起こした下り列車の乗務員も、対向の上り列車を止める行動を取らなかった。なぜ、対向の上り列車を止めようとしなかったのか。真実はよくわからない。
当然、上り列車は、線路を支障する下り列車に衝突する。運命の第三の事故の発生である。
上り列車1両目は衝突の衝撃で大破して砕け散り、2両目から4両目までが脱線、進行方向左側、高架下の倉庫に突っ込んだ。
上り線路上には下り列車の乗客多数が避難して降り立っていたことは、すでに述べた。第3の事故で、上り列車は、線路上の乗客を撥ね飛ばし、轢いた上で、脱線、停止。事故現場は、凄惨を極めたという。
この第3の事故で、先ほどまで負傷者20数名だった列車事故が、死者161名、負傷者296名の大惨事となった。
事故直後の周辺住民、曰く。
「線路上がざわざわと騒がしくなった。その後、ドーンという音がしたと思ったら、急に『シーン』となった」
三河島駅ホームからおよそ500メートル西側にある事故地点界隈は、オカルト指向の皆さんには「出る」スポットとして有名なのだそうだが、往時の面影をとどめるものは、ほとんど残されていない。下り列車が突っ込んだ倉庫は、いまマンションなどに建て代わっている。
***
この事故後、列車防護の訓練、保安規定の整備、自動列車停止装置(ATS)の設置といった安全対策が進むことになる。
しかし。
その記憶もさめない翌年11月、同様の三重事故である鶴見事故が起きる。鶴見事故については、先の関東大会の講評の折に少し触れたが、ここでもあらためてお話しておこう(という訳で、次回へ)。
Suicaで入場できるところから、もうワクワク。車体の展示、ジオラマ、鉄道の歴史、それに「日本食堂」など、それぞれに楽しめたが、お目当てはライブラリーである。
リスク・マネジメントの研究から、畑村先生の失敗学に親しみ、失敗百選の事例にもとりあげられている三河島事故の詳細を調べていたが、ネット上の資料ではどうしてもわからないところが出てきた。これはもう、図書館に行くしかない。
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昭和37年5月3日、午後9時半頃。貨物列車の運転士は、三河島駅脇の貨物線を常磐線の本線に向けて列車を乗り入れようとしていた。当時のことなので、機関車は蒸気機関車。田端駅方向の貨物線から高架上の常磐線本線に向けて勾配を登りきれるよう、馬力が必要だった。
彼は、信号を見落とした。「青だった」と後に主張し続けるのだが、微妙なカーブの死角に入り、隣の常磐線下り線路の信号の青を誤認したと推察される。異説として、まもなく信号が青に切り替わるだろうとの見込みから信号を無視し、確信的に減速しなかったとの説もある。
いずれにせよ、貨物線の信号は赤。貨物列車は停止しなければならぬ。しかし、その認識のない運転士が操作し、傾斜を踏破するための加速度のついた貨物列車は、止まりようもなく、そのまま冒進する。
こういうときのために、下り線路に侵入しないよう、安全側線という設備が設けられている。貨物列車は、常磐線下り線路に入線する代わりに、安全側線に進入した。
残念なことに、勢いがつきすぎていたのだ。安全側線は用をなさなかった。機関車は、安全側線の行き止まりの砂利に乗り上げて脱線。すぐ右となりの常磐線下り線路を支障。この第一の事故が、悲劇の始まりである。
その数分後、常磐線下り列車が、三河島駅を3分遅れで発車。夜のことで視界が悪く、脱線していた貨物列車に衝突、脱線。すぐとなりの上り線を支障する。これが第二の事故である。
この時点での被害は、実はそれほど多くなく、下り列車の乗客に死者はなく、負傷者が20数名であったとのこと。
国鉄は、昭和26年の桜木町事故の教訓として、車両に緊急時脱出用の非常コックの設置を進めた。桜木町事故は、架線異常による列車火災事故だが、そのときは車両内部からの脱出設備がなく、車両火災に遭った乗客が逃げることができず、車両内に閉じ込められたまま焼死してしまった教訓から、乗客が車両から脱出できるよう非常コックが整備されたのである。第2の事故で停止した下り列車の乗客は、自主的に非常コックを開いて、上り線路に降り立ち始めた。
第二の事故から6分後。上り列車が、事故現場にやってくる。現場近くの信号所に列車停止の権限はなく、先に事故を起こした下り列車の乗務員も、対向の上り列車を止める行動を取らなかった。なぜ、対向の上り列車を止めようとしなかったのか。真実はよくわからない。
当然、上り列車は、線路を支障する下り列車に衝突する。運命の第三の事故の発生である。
上り列車1両目は衝突の衝撃で大破して砕け散り、2両目から4両目までが脱線、進行方向左側、高架下の倉庫に突っ込んだ。
上り線路上には下り列車の乗客多数が避難して降り立っていたことは、すでに述べた。第3の事故で、上り列車は、線路上の乗客を撥ね飛ばし、轢いた上で、脱線、停止。事故現場は、凄惨を極めたという。
この第3の事故で、先ほどまで負傷者20数名だった列車事故が、死者161名、負傷者296名の大惨事となった。
事故直後の周辺住民、曰く。
「線路上がざわざわと騒がしくなった。その後、ドーンという音がしたと思ったら、急に『シーン』となった」
三河島駅ホームからおよそ500メートル西側にある事故地点界隈は、オカルト指向の皆さんには「出る」スポットとして有名なのだそうだが、往時の面影をとどめるものは、ほとんど残されていない。下り列車が突っ込んだ倉庫は、いまマンションなどに建て代わっている。
***
この事故後、列車防護の訓練、保安規定の整備、自動列車停止装置(ATS)の設置といった安全対策が進むことになる。
しかし。
その記憶もさめない翌年11月、同様の三重事故である鶴見事故が起きる。鶴見事故については、先の関東大会の講評の折に少し触れたが、ここでもあらためてお話しておこう(という訳で、次回へ)。











鉄道博物館も行ってみたいなぁ(^^ゞ
関東大会で事故の話が出た時は驚きました。
いつもありがとうございます。
私の場合、鉄道の方が道楽としては早い段階から存在しておりまして、ディベートよりもむしろこちらの方が表芸といえなくもないほどでして・・・
鉄道博物館、おススメです。一日では足りません。
ふじ@福島さま>
お運び、誠にありがとうございます。
関東大会で切り出した鶴見事故の話は、整理したうえで、これから順次アップしていきます。いましばらくお付き合い下さい。