澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「司馬遼太郎はモンゴル通か?」(岡田英弘)

2017年02月03日 10時18分06秒 | 

 岡田英弘著作集第七巻「歴史家のまなざし」(藤原書店 2016年)を読んでいたら、「司馬遼太郎はモンゴル通か?」というエッセイが目に留まった。初出は「大航海」(No.25 1998年11月 新書館)と記されている。



 よく知られるように、司馬遼太郎は大阪外国語学校蒙古語科卒業。「街道をゆく5 モンゴル紀行」(朝日新聞社 1974年)の著作でも知られる。

 東洋史・モンゴル史の碩学・岡田英弘が、一般的には、モンゴル通と知られる司馬遼太郎をどう見ているのか、実に興味深く読んだ。

 岡田は司馬の「モンゴル紀行」を読んで「あきれた」「この不勉強ぶりは問題だ」と感想を記す。

 「”モンゴル紀行”でまず引っかかるのは、モンゴルはシナの支配下から独立した、と思い込んでいるらしいことである。」
 「清朝は満洲人が支配する帝国であって、シナはその植民地の一つにすぎず、漢人はシナの主人ではなかった。ましてモンゴルがシナに支配されたことは、歴史上、一度もなかった。」
 「…このことをしっかり認識しておかないと、”モンゴルは、もともと中国の領土の一部だった”という、現代中国人の政治的宣伝の嘘にだまされる恐れがあるから、なおさらだ。」(p.332-3)

 また、司馬遼太郎が「中国の歴史は歴代の王朝の武力で漢民族の居住区が拡大したというより、現実的に見れば百姓の鍬ひとつで耕地がひろがっていき、そのひろがったものを王朝が追認していくというかたちで広がったとみていい。その鍬が北にひろがって草原の土をひっ搔きはじめたのは、大規模なかたちとしては明朝から清朝いっぱいという時期であるらしい」と書くのに対し、岡田は「これはまた、あんまりなはったりだ。14~17世紀の明朝の時代には、モンゴルは元朝の子孫のもとに独立していて、シナの敵国だったし、清朝の時代には、漢人がモンゴルの地に立ち入ることは、厳重に禁止されていた。禁止が緩んで、漢人農民が今の内モンゴル自治区に入植を始めたのは、二十世紀に入ってからのことだ」と記す。
 
 私は本ブログの「中国・内モンゴルの砂漠緑化と遠山正瑛の”善意”」という拙文で、内モンゴルの緑化事業が、中共(=中国共産党)の少数民族支配に協力する結果になると書いたことがある。楊海英氏の著作を見ても、これは今や明らかな事実だろう。岡田英弘のすごさは、「今や明らかな事実」をずっと以前から、ただ一人指摘、警鐘を鳴らしてきた点にある。

 実はこのエッセイは「私は歴史家で、モンゴル史は私の専攻の一つだけれども、世間で文名の高い司馬遼太郎の作品は、読んだことがなかった。本当の歴史を書くのに忙しくて、フィクションにまで手が回らなかったのが、私の無関心の理由である」という書き出しで始まっている。「本当の歴史を書く」とは、いかにも岡田英弘らしいと思った。
 

《追記》 
「悼む 世界の史学界の財宝」(一橋大学名誉教授・田中克彦)

              2017年7月17日 毎日新聞