鳥キチ日記

北海道・十勝で海鳥・海獣を中心に野生生物の調査や執筆、撮影、ガイド等を行っています。

小笠原・硫黄列島に海鳥を訪ねて⑤

2012-07-07 16:24:56 | 海鳥
Photo
All Photos by Chishima,J.
北硫黄島  以下すべて 2011年7月 東京都小笠原村)

NPO法人日本野鳥の会十勝支部報「十勝野鳥だより176号」(2011年12月発行)に掲載の「小笠原・硫黄列島に海鳥を訪ねて(中編)」を分割して掲載 写真を追加)


7月8日(続き):船はカツオドリを御供に、65km離れた北硫黄島目指して再び北上する。シロハラミズナギドリがその白い腹を太陽に射られてソアリングし、セグロミズナギドリは黒い上面に食い込んだ2つの白色斑と共に波間を縫う。ただし、鳥の密度は南硫黄近海ほどではなかった。昼過ぎ、北硫黄島沿岸に到着。南硫黄同様、海上から高く突き出した山のようだ。標高792m、周囲は約8.8km。この島が南硫黄と決定的に異なるのは、かつて有人島だったことにある。明治後年より開拓が始まり、大正時代には2集落に200人以上が住んでいたが、昭和19年の疎開以降は無人島となった。戦前は鳥類の採集も活発に行なわれ、山階鳥研には海鳥を中心に922点もの北硫黄産の標本がある(硫黄、南硫黄は各61、21点:いずれも同研究所の標本データベースより(*注3))。

 島に近付くと船を見付けて近付いてきたであろうアカアシカツオドリ、次いでカツオドリがすぐ近くを飛び、贅沢な競演を披露してくれた。島の崖や斜面を背後に白い鳥がぱらぱら舞っている。アカオネッタイチョウだ。そして白い尾をひらひらと靡かせて優雅に飛ぶ鳥。これがシラオネッタイチョウか!距離は非常に遠いが、黄色い嘴もかろうじて確認できた。アカオの鮮やかな尾羽もいいが、シラオのこの、自身の体の倍以上はありそうな長い尾もまた魅力的だ。天女の羽衣のようではないかいな(見たことはないが)。アカオは場所によっては10羽近くが視界に入って来ることもあり、かなりの数がいたようである。カツオドリ2種が度々船に近接し、マストにアプローチするものもいるが、もはやカツオドリに目を向けているのは一般観光客のみである。アカアシカツオドリのコロニーも遠望できた。肉眼や双眼鏡では白い点だが、画像に撮って拡大すると樹上に20~30羽ほどの本種が、あまり密にはならず集まり、巣の形状は流石にわからないが、幼鳥と思われるぽわっとした羽毛の鳥も確認できた。このような光景を見ると、ウと同じペリカン目であることが実感できる。


アカアシカツオドリ成鳥(右)とカツオドリ
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シラオネッタイチョウ
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 上の光景だけ読むと、さぞかし海鳥の楽園なのだろうと思われるだろうが、残念ながら現状はそうではない。近年行なわれた調査によって、カツオドリ類やアカオネッタイチョウはともかく、地表の穴や隙間で営巣するミズナギドリ類やウミツバメ類はほぼ壊滅状態にあることが明らかにされた。有人島時代に人間と共に入り込んだネズミが蔓延し、それらの海鳥に多大な捕食圧をかけたものと推測される。同じような地形や植生を持つ南硫黄島が海鳥の楽園であるのに対して、一度ネズミのような捕食者が入りこんでしまうと楽園はいとも簡単に壊滅することを、北硫黄の事例は教えてくれている。ネズミをはじめとする捕食者の存在と、その根絶の難しさは世界の各地において、海鳥保全の障壁となっている。


船にアプローチを試みるアカアシカツオドリの幼鳥
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 13時30分前、おが丸は北硫黄島を離れ、父島へ一路北上を開始する。相変わらずシロハラミズナギドリやアナドリが出現するが、密度はそう高くない。早朝からの炎天下の観察で疲れたのと、見たいものは概ね見てしまったので、14時半より船内で行なわれる講演会に参加した。硫黄列島の自然の概要や近年行なわれた南硫黄島調査の様子、ノネコ問題とその対策、ホエールウオッチング等について、実際に活動されている方々から話を聞くことができた。中でも興味深かったのは、硫黄3島での捕食者や人間の存在と現在の海鳥の繁殖状況の比較であった。すなわち、有史以来人間定住の記録が無く、オオコウモリ以外の哺乳類が存在しない南硫黄では十数万羽の海鳥が繁殖し、彼らの楽園となっている。現在は無人だがかつて人が居住した北硫黄にはネズミが生息し、海鳥は数百羽程度。そして現在でも人が居住し、ネコやネズミもいる硫黄島の本島では海鳥は繁殖していない。これら3島の距離は互いに60km程度しか離れていないが、人間や捕食者の存在によって海鳥の繁殖状況が如実に変わるという、大変わかりやすい実例である。他にも多くの関心を惹かれる事項を、多くの画像も用いて説明してくれた。不思議なのは甲板で鳥を見ていた人たちがロクにいなかったことだ。無論この時間にも甲板で見ている人たちもいたが、その人数はかなり減っていた。早朝からの観察で疲れて休んでいたのかもしれないが、もう少し関心を持っても罰は当たるまい。思うに最近の鳥を見る人は、近くで写真さえ撮れればそれで満足してしまい、鳥の生態や行動、保全等に興味を示す人は、以前よりむしろ少なくなっているのではないかとさえ思う。もちろん趣味なのだから何をどう見ようと勝手なのであるが、皆が皆、情報に振り回され、カメラを振り回すような風潮では、日本のバードウオッチング界(そんなものがあるのか!?)は薄っぺらい、皮相的なものにしかならないのではないか。まあ、偉そうに斯く言う自分も早朝から甲板でカメラを振り回していたわけだが…。
 講演会後、別の船室でのパネル展示も見学し、硫黄列島の歴史等についても学んだ後、16時半前に甲板に戻る。陽はまだ高く、空も海も頗る青い。それでも、母島列島東方沖を通過する17時過ぎには高くに半月浮かぶ空は夕焼色に、水平線より虹の立つ海は群青色にとその表情を変えて来た。カツオドリやオナガミズナギドリは、まだ付き合ってくれている。前者は目先の水色が鮮やかなオス成鳥もすぐ近くだ。鳥たちや、夕陽の残照が茜色に染める積乱雲を背後に従えた父島を見ながら午後7時、おが丸は父島二見港へ入港。昨夜の出航からちょうど24時間ということになるが、とてもそうは思えない、1週間くらい行っていたような濃密な航海だった。


カツオドリのオス成鳥
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オナガミズナギドリ
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黄昏に染まる父島
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 下船すると案の定、メインストリートの2件の商店は閉店後だった。「今夜の酒がピンチ!」。かろうじて閉店間際の土産物屋に飛び込み、何とか所望の品を手に入れることができた。それは小笠原の地酒ともいうべきラム酒。ラム酒はサトウキビの糖蜜を発酵して作られる酒で、この小笠原ラムはアルコール度数40度と強いが、僕はこれに氷と若干の水を入れて飲むのが好きだ。宿に荷物を置き、メインストリートとは別の、飲食店通りを目指す。小さな町なので、双方の通りは徒歩1分程度の距離である。飲食店はどこも混雑している。往きのフェリーの混雑を考えれば無理もない。ちなみに、小笠原ではキャンプは禁止されており、コンビニも無いため、食事の手段としては食事付きの宿、あるいは自炊可能な宿で摂るか、外食するしかない(スーパーの弁当は早い時間に売り切れるように思う)。何とか入れた飲み屋で、魚介のピリ辛和えや焼きそばを肴に数杯の酒を飲み、早々と退散。宿は10人近くが入れる大部屋に二段ベッドを並べたドミトリー形式で、安い代わりにプライバシーはまったく無い。しかも、硫黄クルーズの関係で遅く入った僕には二段ベッドの上段しか空いておらず、酒のお代わりやトイレに行くのにいちいち上り下りしなければならず、これは面倒だった。まあ宿の手配をしたのが約一週間前なのだから、いたしかたない。宿では「濃密な24時間」に浸りながら晩酌と洒落込もうと思っていたが、流石に疲れていたらしく、すぐに眠りの世界にいざなわれていた。


小笠原ラム
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*注3:北硫黄産の標本の大部分の採集者は、籾山徳太郎と中曽根三四郎である。籾山については本誌175号掲載の前編の注1を参照。中曽根三四郎(生没年不明)は剥製師で、松平頼孝の専属剥製師であったが独立し、籾山標本の殆どを作ったという。その意味では日本の鳥類学に対して非常に寄与しているが、その人となりが殆ど伝えられていないのは残念である。ちなみに、同データベースでは標本に付されたラベルの写真も見ることができる。それを見ると北硫黄産標本は、標本作製は中曽根、整理や管理は籾山が行なっていたものの、多くの人の採集によって成っていることがわかる。ざっと見ただけでも10人は下らない。中でも古市犬吉という人物は、かなりの数の標本を提供している。彼がどのような人物かは不明だが、標本の採集時期が年間に及んでいること、戦前、北硫黄には古市姓があったことから島民だったと推測される。それ以外の10名以上もおそらく島民だろう。多くの島民の協力があったからこそ、それだけの点数の標本を集められたのだろう。


(続く)

(2011年12月   千嶋 淳)

以前の記事は、
小笠原・硫黄列島に海鳥を訪ねて④
小笠原・硫黄列島に海鳥を訪ねて③
小笠原・硫黄列島に海鳥を訪ねて②
小笠原・硫黄列島に海鳥を訪ねて①