創作欄 徹の過去の人生 4)

2017年01月02日 22時28分16秒 | 創作欄
2013年10 月16日 (水曜日)

行楽園競輪場へ入り、徹は目を丸くした。
祭日ではないのに、場内は人の群れで溢れていたのだ。
この人たちはいったい何をしている人たちなのか?
自分のように失業でもしているのか?
同時に真田憲にも疑問がわいた。
道玄坂で出会った時には「うちで働かないか」と言っていたが・・・
真田憲の仕事はそもそも何であるのか?
場になれない徹は何度も人の肩にぶっかった。
街中なら喧嘩を売っているとことであったが、徹は場内の喧騒に圧倒された。
2万人いるのか3万人いるのか、検討が付き兼ねる。
多くの人が興奮し、喧嘩でもしているように声高に話していた。
そしてレースが始まると柵によじ登るようにして熱狂していた。
「これは、まったく狂気の世界だ」徹は呆れかえる。
だが、真田はあくまでも沈着冷静であり、鋭い視線を競争する選手たちに注いでいた。
それは、地獄や修羅場を見てきた冷徹な男の視線であった。
真田は車券が当たっても外れても顔色を変えることはなかった。
「徹君、競輪は初めてなんだね。競輪は極めて人間臭い競技なんだよ。徹君、腹が減っただろう何か食おう」
真田は徹を促し食堂へ向かった。
食堂へ入ると店の若い女性が茶を運んで来た。
競輪場で若い女性が働いていることに徹は目を見張った。
「社長さん、何時ものカツ丼ですね。勝ち運が着くように・・・」と言い愛嬌を振りまく。
「徹君もカツ丼でいいかね」
「ハイ、ご馳走になります」徹は飲みかけの茶碗を置きながら、ああねさんかぶり(姉さん被り)の女性の顔に視線を注いだ。
真田は背広のポケットからパイプを取り出しながら、ニヤっと笑った。
「徹君、いい女だろう? ああいう女はいいよ」
実は暴力的な徹は、中学生のころから女生徒たちから敬遠されていた。
切れ長であり三白眼の徹の目はいわる座っていて、若い娘の立場として視線を向けれること自体が怖いのだ。

☆あねさんかぶり【姉さん被り】
女性の手ぬぐいのかぶり方の一つ。
手ぬぐいの中央を額に当て左右の端を後頭部へ回し、その一端を上に折り返すか、その 角を額のところへ挟むかする。

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<参考>

在りし日の後楽園競輪場は現在の東京ドームがあるところになる。
右隣の施設は、後楽園球場。
競輪場左隣の緑地は小石川後楽園。
基本情報
所在地:東京都文京区後楽1-3


戦後福岡県小倉市(現北九州市)でスタートした競輪を戦後復興の一助にしようということで1949年、東京都が主催して後楽園球場に隣接する場所に都内初の競輪場を開設。
同年11月からレースを開催し、一般の競輪レース(9車立て)より3人多い12車立てで開催するユニークな経営方針を取り入れたことで人気を集めた。
1958年1月の開催では、一開催の入場者数が約27万人を記録するなど、全国一の売り上げを誇った。
また、コースの内側にはグラウンドが設置されており、オリンピック予選を始めとするサッカー日本代表の試合が開催されたり、ボクシングやプロレスの興行、1958年には全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)が開かれたこともあった(同イベントは翌1959年~1987年まで晴海・東京国際見本市会場で開催)。

しかし1967年に東京都知事に当選した美濃部亮吉が、「東京都営のギャンブルは全面的に廃止する」方針を固めることを明らかにし、それに則って1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている。ちなみに京王閣競輪場は都営が廃止された今日も競輪の開催を調布市など周辺市に主催を移譲して開催している)。
2013年10 月15日 (火曜日)
創作欄 徹の過去の人生 3)
20歳の徹は一度も向学心に燃えたことがなかった。
タクシーは九段坂を下ると白山通りへ出た。
近くに専修大学や日本大学があり、爪入りの学生服を着ている生徒の姿も見られた。
徹はタクシーの中から、屈託なく笑う学生たちの姿を見ると舌打ちをした。
素早く真田憲の視線が注がれた。
街は東京オリンピックへの期待に包まれていたが、徹はオリンピックに全く興味を示していなかった。
日々、就職活動に明け暮れていたのだ。
70社ほど企業を回っていたが、どこも徹を採用しない。
「俺はダメな人間か?!」心はますます荒んできて、暴力的となり喧嘩を仕掛けては憂さを晴らした。
徹は中学生のころ薪で自宅の風呂を沸かしていた。
薪を斧で縦に裂き、釜に入れる長さにするため、薪を拳骨で二つに分断した。
手刀でも試みた。
血豆や裂傷もできたが、2年余続けると自分でも驚くほどの威力を増したのだ。
徹は空手を習ったわけではないが、廃屋の瓦でも拳骨や手刀の威力を試したら、重ねて6枚ほどまでなら瓦は割れた。
歩いて5分ほどの高等学校の校庭へ夜忍び込み、鉄棒で毎日懸垂を試みる。
それも2年続けると腕や肩、胸板に筋肉が着いてきた。
徹は自宅へ戻ると畳の上で腕立て伏せを繰り返した。
体を鍛えあげることは快感ともなった。
父親寿吉の戦友の真田憲は戦地から引き上げてきて、妻子が東京大空襲の犠牲で死んだことを知る。
妻子は実家へ身を寄せていて、義父も義母も空襲の犠牲で昭和20年3月10日亡くなったのだ。
妻の真理子は31歳、息子の清は昭和18年生まれでまだ2歳、娘の里子は昭和16年生まれで4歳だった。
あまりにも戦争は理不尽であった。
妻の真理子は両国の駄菓子屋の娘であり、3人の兄はいずれも戦死した。
音楽家の道を志していた真田憲は長野県の上田から上京し、縁戚であった駄菓子屋の児玉家へ下宿した。
真田憲は昭和14年、真理子と恋愛関係となり結婚した。
戦前は中学校の音楽教師をしながら声楽家を目指していたが、妻子の死で虚無的な心情となった。
徹に渋谷の道玄坂で出会った時、真田憲は自分の若いころの姿を重ね見る思いがした。
自分も徹のような荒んだ目つきをして、闇市をうろつき回っていたのだろうかと・・・
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<参考>
東京大空襲(は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。

東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い。
都市部が標的となったため、民間人に大きな被害を与えた。
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参考
東京オリンピックは、1964年(昭和39年)10月10日~24日に日本の東京で開かれた
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