取手通信・医学情報社 山本 嗣信 (やまもと つぐのぶ)

医学情報社編集顧問
フリージャーナリスト

裏目1000両

2016年10月13日 11時16分54秒 | 創作欄
俺に暴力を振るい、おふくろにも暴力を振ってきた父親にいつか仕返しをしてやろうと宮田虎之助は憎悪を燃やしてきた。
だが、復讐する相手の存在が居なくなると、虎之助の闘争心はやり場を失った。
そのうっ屈した想念は思わぬ形となったのだ。
競輪選手になれなかった悔い。
親父に逆らってまで競輪選手にならなかった己の弱さに腹立たしくなったのだ。
虎之助の中学校の同期生や後輩たちが競輪選手になっていて、それ相応の収入を得ていた。
「走らせれば俺は茨城県内で2位の足を持っていたんだ」と自負するものがあった。
高校時代であるが陸上競技で5㍍の追い風参考ながら、虎之助は100㍍10秒8の記録を誇っていた。
身長164㎝の小柄な彼は、身長180㎝の県ナンバーワンの選手とほぼ互角に渡り合ったのだ。
「俺も競輪選手になっていたら、それ相応の賞金を稼いでいたはずだ」歯ぎしりする思いであった。
虎之助は取手町小掘(おおほり)の田畑を売って、競輪の資金を捻出した。
そして、50万円、100万円単位で車券を買った。
「虎さん。念のために裏も返しなよ」
1-4の車券は520円なので、100万円が5倍になると期待した。
だが、4-1もあり得る。
虎之助は競輪仲間の忠告に耳をかさなかったのだ。
1-4と4-1の写真判定となる。
正面スタンドに居た虎之助は手を合わせて祈っていた。
だが、結果は4-1であり、100万円の車券は紙屑となる。
4-1の配当は1070円であり、もし裏も買っていたら、50万円を投じて535万円を得ていた。
1-4の1点に100万円は無謀であった。
実に皮肉な結果である。
椅子に座り込んだ虎之助は腰が抜けたような状態となる。
田畑を売って得た約1000万円の最後の100万円までが、この日に失われた。
残るのは自宅である。
虎之助はそれさえ担保にして車券に投じてしまった。
利根輪太郎が虎之助知り合った昭和57年ころ、彼は台宿2丁目の坂の下の3間の借家住まいであった。
年老いた母親、妻、24歳の娘、高校生の息子が居た。
虎之助は49歳になろうとしていた。
当時、輪太郎は38歳であった。
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