病室で眠れぬ夜なかに、テレビで多くの汽車の走行するのを観た。
昭和48年、まだSLが走っていたのだ。
当時、医薬品現金卸の日新商事の野口専務からSLの写真を見せられた。
当時の彼女にそのことを話すと「乗りたい。行こうよ。連れていって」と言うのだ。
そして、昭和46年に山口線のSLに乗ったのだ。
「嬉しいね。これがSLね」彼女は大喜びであった。
当方は、上野駅から母の田舎の沼田駅まで何度もSLに乗っていた。
年に2回は母親が帰省していたのだ。
さらに父親の故郷の吾妻線に乗って行く。
トンネルが多いので喜びも増した。
トンネルを抜ける度に汽車の煙が窓から入ってきのだ。
昭和48年、まだSLが走っていたのだ。
当時、医薬品現金卸の日新商事の野口専務からSLの写真を見せられた。
当時の彼女にそのことを話すと「乗りたい。行こうよ。連れていって」と言うのだ。
そして、昭和46年に山口線のSLに乗ったのだ。
「嬉しいね。これがSLね」彼女は大喜びであった。
当方は、上野駅から母の田舎の沼田駅まで何度もSLに乗っていた。
年に2回は母親が帰省していたのだ。
さらに父親の故郷の吾妻線に乗って行く。
トンネルが多いので喜びも増した。
トンネルを抜ける度に汽車の煙が窓から入ってきのだ。