冒頭から訂正です。
6月16日付け「米ぬかレポート(2)」で、「ヒエは抑えたな。深水管理の勝利だ」と、ヒエに対する勝利宣言をしましたが、その後、ナガ田でコナギが爆発的に発生し、さらには抑えたと思ったヒエも大量に立ち上がってきて、手押し除草機だけでは歯が立たず、結局、去年同様、泥田を這って草取りするはめになった。
白田、黒田では雑草はほぼ抑えられているものの、最大のナガ田で、舎長ともども連日、炎天下・地獄の草引きをしている。
おかげで左肘の近くの皮がむけてしまった。中腰のスクワットの姿勢で右手で草を取るが、その間、左腕を左膝について上体を支えることになる。長くやっているとこんなふうに左肘の近くの皮がむけてきた。環境にやさしい農業は体(筋肉や皮膚や足腰)にはやさしくない。
このナガ田は昨年まで数十年にわたって除草剤を使用し続けてきた田だ。昨年借りた、やはり前年まで除草剤を使ってきた別の田でも、ヒエ、コナギが大量発生した。近隣の無農薬でやっている人の話を聞くと、毎年草取りをしているとだんだん少なくなり、2反の田でも一人で1日もかからず草取りできるとのこと。やはり田のなかに有機物が増え微生物が増えてくるとそんな土になるのかなあ。早くそんな田になってくれたらいいなあ。来年、再来年と少しずつよくなる、なってほしいと思うから百姓はやっていられる。
そんなささやかな希望に支えられて私たちは続けていられるが、それでも、働き手が年寄りだけ、あるいは街で働きながらの「土日百姓」といった日本の山間部の多くの農家では、「環境にやさしい持続可能な農業」では持続できない、機械と農薬と化学肥料に頼らざるを得ない、ということを前回書いた。そして国の政策も一貫して農業集約化を進める方向だった。その結果が現在の日本の農山村の姿だ。過疎化、超高齢化、限界集落化の流れは止まらず、空の半分しか見えないような谷間の小さな田んぼにラジコンヘリでカメムシ防除の農薬を撒くといった中途半端で当の百姓にとっても大してメリットもないことにカネが使われている。このカネの出所が「中山間地域等直接支払制度」だからますますため息が出る。なぜため息が出るのかについてはおいおい書いていきたい。まずはドイツの話の続きからだ。
ドイツ(ならびにヨーロッパの国々)では集約農業ではなく、その逆方向の「粗放農業」の実践に国が補助金を出す。目的は環境保護(と過剰生産対策)だが、この「環境」には農村景観も含まれる。環境保全や農村景観の維持に資する数十項目の農法、取り組みごとにポイントが決められ、そのポイントの合計で受け取る補助金の額が決まる。
例えば、化学肥料をやめたら(1ヘクタールあたり=以下同)8点、有機農業にしたら17点、除草剤をやめたら7点、穀物の播種間隔を17センチ以上(要するに疎植ということですね)にしたら6点、牛の数を草地1ヘクタールあたり1.4頭以下にしたら4点、傾斜度35%以上の草地で飼ったら5点、危機にさらされた地域特有の在来品種の家畜を飼ったら10点(1頭あたり)、生け垣を維持したら16点…といった具合だ。1点が10ユーロになる。項目やポイント配分は各州ごとの実情に合わせて若干異なるようだが、スタートは1989年に制定された「農業生産粗放化促進法」。この法律が施行されてから、ドイツでは粗放農業に取り組む農家が爆発的に増え、例えばバーデン・ヴュルテンベルク州では2004年時点で粗放化プログラムへの参加農家数は8割に達している。
同法制定以前、欧州共同体(EC)各国は共通農業政策により、域内の農産物価格は補助金により高い価格で買い上げ、域外の農産物には関税や課徴金を課した。作れば作るだけ儲かるのだから、当然、機械化、農薬・肥料の多投、すなわち集約化が進み、結局、生産過剰になる。これに貿易摩擦やら環境破壊が加わり、さまざまな曲折を経て、生産調整と環境保護と(増産意欲を刺激しない)農家の所得保障という3側面を併せ持つ政策として粗放化政策が登場した。
なかなかよい知恵だ。だけどね、手間のかかる生産性の低い農業をしてくれたら補助金(税金)を出しますよ、という政策を、農民以外の納税者がさしたる抵抗なく受け入れるところが偉い。
なぜだろうか。なぜヨーロッパ各国は伝統的に農業を手厚く保護してきたのだろうか。
一つは食糧自給に対する重きの置き方が日本と違うという気がする。食糧自給は国民の安全のために重要だという認識が行き渡っているのではないか。それともう一つ、これも同じ脈絡にあるのだが、ヨーロッパの農山村地帯の多くは国境地帯でもあるわけで、ここに人が住まなくなると、即、国境線にスキができることになる。国境地帯の無人化、空白化は大きな脅威と感じられるだろう。何しろつい最近まで国境を越えたり越えられたりして血で血を洗う戦いを繰り広げてきた地域だ。このあたりが農業政策に対する彼我の意識の隔たりだろうと思う。もちろん環境問題に対する意識も違う。
こうした国防上の課題、深刻化する環境破壊への対処、農村景観という国民文化の保持、そして農民の健康で文化的な生活を営む権利の保障等に総合的に対処する方策として、農業・農山村政策が立てられている、と私は見る。
このへんが、正面から課題に向き合う姿勢がなく、基本的な方向性もなく、ヨーロッパのやり方を横目で見ながら縦割り行政のチマチマした施策しか打ち出せない日本の農政と大きく違うところだ。
そんな日本の農政にも小さな変化の芽が兆していることを紹介したいが、田んぼに行く時間だ。舎長がせかす。続きは次回。写真だけアップしておきます。
6月16日付け「米ぬかレポート(2)」で、「ヒエは抑えたな。深水管理の勝利だ」と、ヒエに対する勝利宣言をしましたが、その後、ナガ田でコナギが爆発的に発生し、さらには抑えたと思ったヒエも大量に立ち上がってきて、手押し除草機だけでは歯が立たず、結局、去年同様、泥田を這って草取りするはめになった。
白田、黒田では雑草はほぼ抑えられているものの、最大のナガ田で、舎長ともども連日、炎天下・地獄の草引きをしている。
おかげで左肘の近くの皮がむけてしまった。中腰のスクワットの姿勢で右手で草を取るが、その間、左腕を左膝について上体を支えることになる。長くやっているとこんなふうに左肘の近くの皮がむけてきた。環境にやさしい農業は体(筋肉や皮膚や足腰)にはやさしくない。
このナガ田は昨年まで数十年にわたって除草剤を使用し続けてきた田だ。昨年借りた、やはり前年まで除草剤を使ってきた別の田でも、ヒエ、コナギが大量発生した。近隣の無農薬でやっている人の話を聞くと、毎年草取りをしているとだんだん少なくなり、2反の田でも一人で1日もかからず草取りできるとのこと。やはり田のなかに有機物が増え微生物が増えてくるとそんな土になるのかなあ。早くそんな田になってくれたらいいなあ。来年、再来年と少しずつよくなる、なってほしいと思うから百姓はやっていられる。
そんなささやかな希望に支えられて私たちは続けていられるが、それでも、働き手が年寄りだけ、あるいは街で働きながらの「土日百姓」といった日本の山間部の多くの農家では、「環境にやさしい持続可能な農業」では持続できない、機械と農薬と化学肥料に頼らざるを得ない、ということを前回書いた。そして国の政策も一貫して農業集約化を進める方向だった。その結果が現在の日本の農山村の姿だ。過疎化、超高齢化、限界集落化の流れは止まらず、空の半分しか見えないような谷間の小さな田んぼにラジコンヘリでカメムシ防除の農薬を撒くといった中途半端で当の百姓にとっても大してメリットもないことにカネが使われている。このカネの出所が「中山間地域等直接支払制度」だからますますため息が出る。なぜため息が出るのかについてはおいおい書いていきたい。まずはドイツの話の続きからだ。
ドイツ(ならびにヨーロッパの国々)では集約農業ではなく、その逆方向の「粗放農業」の実践に国が補助金を出す。目的は環境保護(と過剰生産対策)だが、この「環境」には農村景観も含まれる。環境保全や農村景観の維持に資する数十項目の農法、取り組みごとにポイントが決められ、そのポイントの合計で受け取る補助金の額が決まる。
例えば、化学肥料をやめたら(1ヘクタールあたり=以下同)8点、有機農業にしたら17点、除草剤をやめたら7点、穀物の播種間隔を17センチ以上(要するに疎植ということですね)にしたら6点、牛の数を草地1ヘクタールあたり1.4頭以下にしたら4点、傾斜度35%以上の草地で飼ったら5点、危機にさらされた地域特有の在来品種の家畜を飼ったら10点(1頭あたり)、生け垣を維持したら16点…といった具合だ。1点が10ユーロになる。項目やポイント配分は各州ごとの実情に合わせて若干異なるようだが、スタートは1989年に制定された「農業生産粗放化促進法」。この法律が施行されてから、ドイツでは粗放農業に取り組む農家が爆発的に増え、例えばバーデン・ヴュルテンベルク州では2004年時点で粗放化プログラムへの参加農家数は8割に達している。
同法制定以前、欧州共同体(EC)各国は共通農業政策により、域内の農産物価格は補助金により高い価格で買い上げ、域外の農産物には関税や課徴金を課した。作れば作るだけ儲かるのだから、当然、機械化、農薬・肥料の多投、すなわち集約化が進み、結局、生産過剰になる。これに貿易摩擦やら環境破壊が加わり、さまざまな曲折を経て、生産調整と環境保護と(増産意欲を刺激しない)農家の所得保障という3側面を併せ持つ政策として粗放化政策が登場した。
なかなかよい知恵だ。だけどね、手間のかかる生産性の低い農業をしてくれたら補助金(税金)を出しますよ、という政策を、農民以外の納税者がさしたる抵抗なく受け入れるところが偉い。
なぜだろうか。なぜヨーロッパ各国は伝統的に農業を手厚く保護してきたのだろうか。
一つは食糧自給に対する重きの置き方が日本と違うという気がする。食糧自給は国民の安全のために重要だという認識が行き渡っているのではないか。それともう一つ、これも同じ脈絡にあるのだが、ヨーロッパの農山村地帯の多くは国境地帯でもあるわけで、ここに人が住まなくなると、即、国境線にスキができることになる。国境地帯の無人化、空白化は大きな脅威と感じられるだろう。何しろつい最近まで国境を越えたり越えられたりして血で血を洗う戦いを繰り広げてきた地域だ。このあたりが農業政策に対する彼我の意識の隔たりだろうと思う。もちろん環境問題に対する意識も違う。
こうした国防上の課題、深刻化する環境破壊への対処、農村景観という国民文化の保持、そして農民の健康で文化的な生活を営む権利の保障等に総合的に対処する方策として、農業・農山村政策が立てられている、と私は見る。
このへんが、正面から課題に向き合う姿勢がなく、基本的な方向性もなく、ヨーロッパのやり方を横目で見ながら縦割り行政のチマチマした施策しか打ち出せない日本の農政と大きく違うところだ。
そんな日本の農政にも小さな変化の芽が兆していることを紹介したいが、田んぼに行く時間だ。舎長がせかす。続きは次回。写真だけアップしておきます。