『21世紀への伝説史 王貞治』プロデューサーが語る製作秘話
『21世紀への伝説史 王貞治(DVD2枚組&愛蔵本)』のプロデューサーが語る、王貞治の知られざる素顔とその魅力。
 



荒川さんのインタビューを通じて、とても鮮烈に印象に残った話がありました。

同じチームのライバル、長嶋さんとの話です。
一本足打法によって昭和37年のシーズンに開眼した王選手でしたが、翌年の38年は同じチームの4番・長嶋選手が、初の三冠王を目指してホームラン部門を独走していました。
そのシーズンのことを振り返って、荒川さんはこんなエピソードを語ってくれました。
「実は38年は、王は5月から6月くらいにかけて2ヶ月くらい、俺の自宅での練習をサボっていたんだ。そしたら、8月ころに来て

“ホームラン王だけ、獲らせてください”

と頭を下げてきた。そのとき、長嶋は三冠王に手が届きそうなところまで来ていた。正直言うと、俺は長嶋に三冠王を獲らせてあげたかった。サボっていた王にタイトルを獲らせたくはなかった。そこに、“ホームラン王だけ獲らせてくださいって”調子のいいこと言いやがって、この馬鹿野郎って思いましたよ。でも、“死に物狂いでやりますから”っていうので、しょうがなく承諾したんだ。」

そして、その年8月15日まで27本だった王のホームランは、そのわずか1カ月後には10本の固めうちをして37本に。9月27日には、38号ホームランを放ち、長嶋を捉える。そして40本の大台にのせ、王は長嶋の三冠王を阻み、2年連続のホームラン王のタイトルに輝いた。

長嶋選手の記録を紐解くと、入団した33年は、ホームラン王と打点王の二冠に。36年は、首位打者とホームラン王の二冠に。そして、迎えた38年のシーズンは、首位打者と打点王になったものの王選手にホームラン王を阻まれたために三冠王を逃す。長嶋選手の野球人生において、結果的にこれが、最後の三冠王のチャンスであり、このチャンスを逃したために三冠王を獲ることのないまま、現役を引退することになる。

しかし、逆に、長嶋は王の三冠王のチャンスを、その後5度阻止することになる。



インタビューは長時間にわたりましたが、荒川さんは本当に昔のことを、昨日のことのように鮮明に語ってくれました。そして、どのように映像で料理していこうか、手に余るような面白いエピソードをいくつも語っていただけました。
荒川博に出会ったことによって、王貞治というホームラン打者が、確かに生まれた。
そこに潜む数々のエピソードを実際に聞くことができて、本当に充実した気分でした。

次回からは、いよいよ、長嶋茂雄が語る王貞治を綴ります。

※ソフトバンクホークス プレーオフ第1ステージ突破、おめでとうございます!


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 荒川博と王貞治。その二人だけにあった “特別な何か”とは?
「盲目的なまでに従順な師弟関係」そして、もう一つは、「偶然の幸運を必然の運命に変えていく力」。

 昭和37年 7月1日。荒川コーチは、その日一本足でホームランを打った後のロッカールームで、王にこう言います。(荒川氏のインタビューの同録をそのまま掲載)
『おまえな、今日、運をつかんだんだよ。一本足で、運をつかんだんだよ。これを、絶対に逃しちゃだめだよ。この運を逃さないには、どうしたらいい?いままで以上に、練習しような。今日帰って、いままで以上に練習しような。』

 前述したように、荒川博と王貞治との最初の出会いは、偶然でした。“たまたま”犬の散歩に来ていた荒川氏の、「君は、左利きなんだから、左で自然に打ったほうがいいよ。」というアドバイスをうけた少年王貞治は、その打席で特大の2塁打を打つ。それ以降、少年王は、左打席を自分のものにするために、必死に練習を続けます。
 そして、二人は、巨人軍のコーチと選手として、再会。
 その再会の後、一本足の誕生も、偶然でした。別所コーチの挑発に“たまたま”のってしまった荒川コーチの「今日は、一本足行こう」という指示に、王はヒットとホームランで応えます。それ以降、王は、“のちに”よのなかでその打法が「一本足打法」と呼ばれるまで、練習を続けます。

 人生に予期せぬ出来事はつきもの。「タナボタ」もある。しかし、それをそれで終わらせることなく、大きな成功につなげために、諦めたり投げ出したりせず取り組み続けることで、偶然の出来事を、必然の運命へと変えていく。荒川博と王貞治は、一見偶然に見えることを、結果的に必然の運命に変えていくための努力を続けていたのです。

 さて、王監督は、一本足の誕生の日を回想して、こう語ります。
「この日、ヒット、ホームラン、この2本が出ていなかったら、一本足打法は、日の目をみることはなかった。その日、3三振だったら、一本足を続けていなかったと思います。」
そして、「僕は、土壇場での運の強さをもっていると思います。そういう意味で、最終的には自分が勝つんだという意識が、この日から強くなりました。」

 この言葉は、2000年8月23日に、立川パレスホテルにてインタビュー取材した時のものですが、王監督の「最終的には自分が勝つんだ」という意識こそが、実は、今年のWBCにおける日本チームの優勝をも導いたと思います。
 アメリカ審判の口惜しい判定にも、韓国への連敗にも、日本チームは勝利をあきらめ投げ出すことはなかった。その結果、アメリカの敗戦も韓国へのリベンジも、王ジャパンの劇的な優勝へのシナリオの一部に組み込まれていったのだと思います。


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王監督の母校 早稲田実業高校が、夏の甲子園で初優勝しました。斉藤投手が、最後の打者となった駒大苫小牧エース田中選手を三振に取ったシーンは、鳥肌がたちました。早稲田実業高校のみなさん、本当におめでとうございました。

早稲田実業高校の監督・選手・スタッフのみなさんに少しでも力になればと思い『21世紀への伝説史 王貞治 DVD』を、甲子園が始まってまもなく、早稲田実業高校のみなさんがいらっしゃる大阪の宿舎のほうへお送りさせていただきました。お守りにでもなっていただけていたら、幸いです。

今日も、王監督の喜びの談話が発表されていましたが、実は、早稲田実業高校・王貞治の誕生は、本人の意図とは別の運命的なものでした。王少年は中学卒業後、父親の影響もあり電気技師になるべく都立の工業高校を第一志望として受験します。しかし、その高校を1点足らずに落第。その結果として名門・早稲田実業高校に進学することになります。

そして、早稲田実業高校時代の3年間、4回の甲子園出場を果たしています。

・ 1年生の夏、5番レフトで出場。2回戦敗退
・ 2年生の春、投手として4試合完投して、優勝日本一
・ 2年生の夏、2回戦敗退(一回戦でノーヒット・ノーラン達成)
・ 3年生の春、2回戦敗退
・ 打者成績:通算打率.294
・ 投手成績:防御率1.50

王監督ご本人の思い出でいうと、初めて日本一という感動を手にした2年の春の甲子園もさることながら、3年生の最後の夏、「とんでもない負け方の試合」が、強烈に記憶に残っているそうです。「とんでもない負け方の試合」とは、高校三年生、甲子園への出場を賭けた東京都予選の決勝戦で(対明治高校戦)延長12回の表、1-1から早稲田実業高校が一気に勝ち越し、5-1とリード。しかし、その裏逆転され、5-6で敗退。甲子園出場の道を断たれたという試合です。

最後の夏に、甲子園に出場できなかった悔しさが、早稲田大学進学よりも、一刻も早くプロで野球をやりたいという気持ちを掻き立てることになります。そして、その想いが、後の巨人軍・王貞治を形づくっていったといわれます。

敗れたとはいえ、3連覇を掴み取ろうとした駒大苫小牧高校の選手は、うらやましいほどかっこよかった。今日の「とんでもない試合」の経験が、人生の宝物になって、これからの人生をさらに大きく切り開いていってほしいと思います。

両校の選手・監督・スタッフのみなさん、そして関係者のみなさん、本当に御疲れ様でした。

大きな感動をありがとうございました。


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昭和38年 7月1日。盲目的な師弟関係の賜物で、一本足打法は、デビューします。

もともと『一本足打法』は、王のバッティングの悪い癖を矯正するための一時的な練習打法として始まりました。悪い癖のひとつは、バットのヘッドが下がる癖をなおすための打法。つまり、ミートポイントまでバットが最短で届くためにダウンスイングを意識するための打法。もうひとつは、タイミングがとれずに打球が詰まってしまう癖を直すために、ピッチャーが足を上げたら、自分の足をあげ、ピッチャーが足をついたら自分の足を下ろす、といいう単純な行為を行うことでタイミングをはかるための打法。
 そのため、荒川は、グランドで球を打つということなく荒川の自宅で素振りを行うという方法をとっていました。そして、この荒川宅での素振り練習は、この年の5月くらいから始まっていました。

そして、その日はやってきます。7月1日の大洋戦の前に、ピッチングコーチである別所氏(当時)が、バッチングコーチの荒川氏を批判します。「ジャイアンツが勝てないのは打線が悪いからだ。お前がマンツーマンで指導している、王も打てねぇじゃねぇか!」
特に、王のバッティングを批判された荒川も売り言葉に買い言葉、「ホームランくらいなら、わけないねぇ。」と反論し、引っ込みつかなくなった荒川氏は、試合前の王にこう告げます。

「おまえ、ちょっと来い。三振するのは、怖くはないだろ。練習している一本足は飛ぶから心配するな。今のところ“飛ぶだけ”でもいいから、今日は、一本足で行こう。」実は、このときまで王は、一本足打法で素振りだけしかしていませんでした。バッターボックスはおろか、フリーバッティングもしていない段階でした。

しかし、コーチの荒川が買った喧嘩である無茶苦茶な話にも、王は素直に「ハイ」と返事をしたのです。

そして、王の第一打席。大洋の投手が、足を上げた瞬間、王の右足がタイミングを合わせてあがります。その球を振りぬいて、目の覚めるような、ライト前ヒット。一本足打法がデビューした瞬間でした。そして次の打席は、ライトスタンドへのホームラン。このとき、荒川は、一塁コーチボックスでホームランを打った王と握手をするとき、涙が溢れて止まらなかったそうです。

荒川氏は、『「習う」というのは、師匠が“こうだ”といったら、すべてに“ハイ”と答える。このくらい馬鹿になれなきゃだめだ』と言い切ります。現代のスポーツ指導方法からいうと、指導者があまりにも高圧的過ぎて、選手自らが考える積極性が育たないのではという批判を浴びるかもしれません。
ただ、王は、師匠荒川を信じきると決めたことで、結果を憂えた予測をするのではなく、まずは、挑戦してみるという姿勢が、貫かれるようになっていったと思います。

『今の何かを失うよりも、新しく得られる何かに賭ける』

この強烈な想いがあったからこそ、二人の関係は、数々の困難を乗り越え、新しい人生を切り開いていくことができたのです。



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山梨県石和温泉での荒川博氏へのインタビューは2時間ほどに及びました。

唯一無二の“一本足打法”を創り上げた師匠の荒川博と弟子の王貞治。その二人だけにあった “特別な何か”とは?
私の中で印象に残ったのは、2つ。ひとつは、「盲目的なまでに従順な師弟関係」。そしてもう一つは、「偶然の幸運を必然の運命に変えていく力」。
 
 荒川氏は、インタビューの中で「俺が言ったことに、王はいつでも“ハイ”と答えた。王の返事にいつも迷いはないね。師匠と弟子というのは、こういう関係じゃないとだめなんだ。」と繰り返し語ります。つまり、盲目的なまでの従順な師弟関係が、荒川と王にはあり、時間をかけてその信頼関係を築いたことこそが、一本足打法を生み出せた理由のひとつだと思います。

王は、入団3年目でスランプに陥ります。3シーズン目を終えた王の成績。ホームランは4本減って13本。安打も15本減って100本。打点も18減って、53打点。打率も.017減って.253に。打撃に自信がなくなってきた時期であった。

翌年(1962年)巨人軍コーチに、荒川氏が就任する。荒川氏は早々に、王に暗示をかける。
「川上監督(当時)、言っていたよ。長嶋もすごいけど、王のほうが凄くなるかもしれないって。俺は、ベーブルースの記録をぬくのは、お前しかいないと思っている。二人で、ホームラン世界新記録をつくろうな。」
そのとき、王は、照れる素振りを見せることもなく、深く「ハイ」とうなずいた。

それから、荒川と王の地獄の特訓が始まる。
シーズン中も、朝4時に起床。寒稽古に始まり、素振り、素振り。その日の試合を行って、また素振り。終わるのは、いつも午前0時を回っていた。時々、そのまま、朝になってしまうこともある。地方への遠征中ももちろん休まない。朝起きてきた川上監督が朝までバットを振っている王に驚いて、今日の試合は大丈夫か、とたいそう心配したというエピソードもある。

荒川氏から教えられた「努力」の意味を王は次第に理解し始める。「努力」とは、毎日の積み重ねだから、けっして、休まない。手を抜かない。

普段は、荒川氏の自宅で素振りの特訓を行ったが、王の激しい足の動きに、畳が1日一枚ずつ破れていく。荒川氏の自宅の八畳間で素振りをしていると、1日一枚畳が破れていくので、畳の裏表を入れ替えて、16日で全部だめになる。そこで、2日間は破れないような硬い畳を作ってもらったら、こんどは、畳に負けて、王の右足の小指が裂けてきた。

「ホームラン王を取るには、指が一本くらいとれるのは、あたりまえだろ?」
荒川氏が聞くと、王は素直に「ハイ」と返事をした。


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荒川博氏の取材は、夏本番になった2000年 8月10日、山梨県石和温泉で行われました。

 私が荒川氏にお会いする前に持っていた印象は、“荒川道場”と称して駒田徳広選手(元巨人、横浜)に一本足打法を指導したもの、結局は一本足打法として開眼しなかったというもの。世界記録の実績を残した打法なのだから、もっと他の打者が真似をしてもいいはずなのに、どうしてうまくいかないのだろう。それだけに、荒川博と王貞治の二人の間にはには、二人しか出来ない“特別な何か”、があったに違いありません。そして、その師匠と弟子の“特別な何か”について自分なりの解を求めて、取材前はとても興奮しました。
ちなみに、王貞治に憧れて台湾から日本野球界にやってきた大豊泰昭(元中日ドラゴンズ)選手も、一本足打法に挑戦し、王選手ほどの輝かしい成績は残せなかったのもの、1994年にはホームランと打点の2冠王に輝きました。日本のプロ野球界で、王選手以降、一本足に取り組んだ記録が残っているのは、前述の駒田徳広選手、そして大豊選手の2名です。

 ロケ車で、中央高速道路一宮御坂ICから国道20号を経由し5分ほどで、石和温泉に到着しました。療養しながら地元の子ども達に野球の指導を行っているとのお話を伺っていましたが、地方で隠居しているという雰囲気は全くなく、我々スタッフを元気よく出迎えていただきました。テレビの解説などで、荒川氏の声は聞いたことがありましたが、思った以上に豪快で迫力がありました。これが、世界のホームラン王・王貞治を育て上げた鬼の荒川博か・・・。

 我々が早速、インタビューの準備をしていると、荒川氏が、王選手とのエピソードを語っていただける写真をたくさん持ってきて、むこうから語りかけてくれました。思った以上に、優しくて暖かい方、そう感じました。都内のホテルで時間に追われるインタビューではなく、緑溢れ青い空が広がる温泉卿でのインタビューはゆっくりと時間をかけてはじまりました。



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 王監督が「野球の素晴らしさを、次代を担う子供たちにも伝えよう」という目的で始め、王監督ご自身が理事長を務めるWCBF・世界少年野球大会。今年で17回目を迎え、北海道で今月29日(~8月4日まで)開催されています。
 この大会では、アメリカ、韓国、中国など、日本を含む18カ国の国・地域から、700人を越える少年、少女が参加しています。大会期間中は、国際野球連盟(IBAF)から選任されたコーチの指導による野球教室や、韓国少年チームと地元北海道内の選抜チームと国際交流試合などが行われます。
 今年3月に開催されたワールドベースボールクラシック(WBC)での準優勝したキューバの選手の中には、少年のときにこの大会(WCBF・世界少年野球大会)に参加し、王監督から直接指導された選手もいました。この大会で、将来の野球界をリードするスターが輩出されることを楽しみにしています。
 私どもからも、ささやかではありますが、子ども達へのプレゼントとして、「21世紀への伝説史 王貞治 DVD」を寄贈させていただきました。王監督の想いや情熱が、一人でも多くの子ども達に伝わればと思います。みんな、がんばれ。

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証言 荒川博が語る王貞治の真実(1)

一生のうちに、人生を変える人との運命的な出会いの日があります。
王監督が、人生を変えた出会いといってはばからないその日は、中学2年生のとき、昭和29年秋に訪れました。墨田公園少年野球場で、当時毎日オリオンズの選手だった荒川博氏との出会いである。このときの出会いについて、荒川博氏、王監督にそれぞれにインタビューしていますが、荒川氏は、11月23日だとはっきり覚えていると答え、王監督は、11月30日だったかな、と答えているので、この場では、その運命的な出会いの日は、昭和29年11月23日とさせていただきます。作品の中ではこの1週間のずれがなんともユーモラスで、そのまま収録していますので、ぜひ、ご覧下さい。


当時の少年王貞治は、左利きにも関わらず右打席で打ち続けていた。
荒川氏は、その日自転車に乗りながら犬の散歩に来て、少年たちの野球を見ていた。

そして荒川氏は、ひときわ体が大きかった少年に声をかける。

荒川;「君は右で打ってるね。」
王少年;「はい。」
荒川;「なんで?」
王少年;「お兄ちゃんが右で打っているから」
荒川「;君は、左利きなんだから、左で自然に打ったほうがいいよ。」
王少年;「はい。」

そして、その少年は、生まれて初めての左打席に入り、特大の2塁打を放ちます。
少年は、自分の才能の一気に引き出してくれた 通りすがりのプロ野球選手に畏敬の念を覚え、そして、荒川氏は、少年の非凡な才能とその純粋さに心を奪われる。
そして、王が巨人軍入団後、王と荒川は、二人三脚で、ホームランバッターになるための一本足打法を作り上げていくことになるのです。

次回から、王の恩師、荒川博が語る王貞治の真実を綴ります。


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王監督が、胃の腫瘍摘出手術を受けるため、本日6日から休養されることを発表しました。
5月にお会いしたときには、普段と変わりなく、むしろWBC世界一の称号を手にしたせいか、ますます元気なご様子だっただけに、とても驚いています。
監督業の世界を取材させていただくと、その業務の大変さは、一般的なビジネスの世界のそれとは、全く別次元のものであることを実感します。毎日、真剣勝負の世界に身を置きつつ、試合の始まる前には、野球界、政界、財界、様々な方々の面会をうけ、そして休日には、ファンや野球普及のための活動に情熱を注ぐ。
今回のWBCにおいても、そしてその後も、我々の想像を超える激務だったのではないかと思います。

今は、ゆっくりとご静養されてください。
そして、また、元気な王さんがグランドで見られることを、こころよりお祈りします。


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 新聞社から掲載の許可をいただきましたので、掲載させていただきます。
 「城島 貞治打法で点火 ~恩師のDVD見て昔の打撃取り戻した」


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1994年秋。ホームラン世界記録を持つ王が、パ・リーグで、しかも、東京から離れ福岡で戦うことは、当時多くのファンは衝撃を与えました。そして、監督就任直後に監督自らが、甲子園とは無縁の一高校出身である城島選手を説得するために、佐世保まで出向いた様子は、当時のニュースでも大きく取り上げられました。

 城島選手に初めて会った後の記者会見で「城島選手をどう言って口説いたのか?」という記者の質問に対して、王監督はこう語っています。

「『きみなら、もっともっと高いところまでいける』と言いました。」 
(この記者会見の様子は、本編に収録しています。)

 これが、城島選手がまだプロになる前の今から10年以上も前に、王監督が城島選手を口説いた言葉です。それから、城島選手は、ホークスの正捕手の座を獲得し、リーグを代表する捕手へ、そして、日本人初の大リーガー捕手へと成長を続けます。さすがの王監督でも、“もっともっと高いところ”が、大リーガーの正捕手とまでは、想像できなかったのではいでしょうか。
ただ、振り返ってみると、この一言が、城島選手に大きな影響力を与えたことは、間違いなさそうです。

 先月、東京ドームでの巨人との交流戦の試合前に、王監督にお会いしてきました。そして、『城島選手、王監督のDVDを観て打撃が開眼した』という新聞記事をお渡しました。城島選手の活躍については、本当にうれしそうに語ってくれました。
そして、チームが今一歩乗り切れない状況で、監督に、「今シーズン、城島選手が抜けた穴が大きいのではないか?」とお聞きすると、
「城島が抜けることは、前からわかっていたわけだから、チームは城島がいなくても勝てるように準備をしてきた。大丈夫だよ!」
そう語る王監督は、ほんとうに自信に溢れていました。

シアトルマリナーズ城島選手は、6月17日「7番・キャッチャー」で先発出場。2安打1打点と4試合ぶりのマルチヒットをマーク。
城島選手が、さらに、“もっともっと高いところ”に行けるように、こころより応援しています。


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城島健司選手の取材は、2000年9月20日、福岡ドームのホテル内で行われました。
城島選手は、その前の年(1999年)にベストナインにも選出され、球界を代表する捕手として注目を浴び始めたところだったので、我々スタッフは、どんな選手か期待に胸を膨らませて福岡に乗り込みました。果たして城島選手は、我々の期待をはるかに超える、熱きスポーツマンでした。

 インタビューが始まり、王監督との出会いから優勝までの5年という歳月を熱く語るうちに、城島選手の目には次第に涙が溢れてきました。そして、その涙が、ついに溢れ出そうになったのは、1999年9月25日、ホークスが初めてリーグ優勝を決める、福岡ドームでの試合の心境を伺っていたときです。

 「王さんには、今のプロ野球選手としての地位を築かせていただいた。一監督、一選手という関係ではなく、人間として師匠として、特別な存在である。本当に感謝している。・・・・・・」
 「だから、去年(1999年)の優勝を決める試合、最後のバッターを2ストライクまで追い込んで、あと1球となったときに、ふっとベンチを見たら監督が笑っていたんです。その監督のなんともいえないうれしそうな笑顔をみたら思わず涙がでてきてしまいました。もう、涙があふれ出したら止まらない。あと、1球ボールだったら、前が見えなくてボールを取れなかったと思います。」

 実際に、その試合では、9回2アウト、2ストライクに追い込んだあと、城島選手は、球審にタイムを要求し、マスクをはずしておもむろに涙をぬぐいます。そして、次の球はストライクを要求し、三振を取ってゲームセット。王監督が、初めて福岡の地で胴上げされます。チーム創設11年目にしての初優勝。前身の南海も含めれば26年ぶり、さらに、九州に本拠地を置く球団としては、実に36年ぶりのリーグ制覇を果たしました。

 もちろん、DVDには、その城島選手が涙をぬぐうシーンと、王監督がにこやかに微笑むシーン、そして、福岡ドームの熱狂のシーンを、大島ミチルさんの楽曲にのせて、感動的に編集してあります。ぜひ、ご覧下さい。


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今月5月4日のスポーツ新聞に、「城島 『恩師のDVD』を見て昔の打撃取り戻した~貞治打法で再点火~」という記事が大きく取り上げられました。 『恩師のDVD』とは、もちろん、本作品「21世紀への伝説史 王貞治」のことです。

記事は、本来の打撃を見失っていたものの、5日1日のツインズ戦で約一ヶ月ぶりとなる逆転の2ランホームラン含む3打数3安打を放った城島選手をとりあげ、「あの一本で、今までなぜヒットが出なかったのかわかった。自分の打撃を再確認できた。」と本人のコメントを紹介。そして、「自分の打撃を再認識できた」きっかけが、「日本から持参した王監督のDVDを見て」からであるという内容が紹介されています。
さらにその記事では、DVDを見た城島選手の感想について触れ、「監督は、めちゃめちゃバックスイングが大きいですからね。でも自分でそれを知っていたから最短でバットを出そうとしていただろうし、バットが遠回りしている分、伝わる力も大きかったと思う」。そして、「(記事引用)城島は、目指す打撃が貞治打法にあることを強調。愛弟子として、世界の王の名を汚さないためにも、結果を出すつもりでいる。」とまとめている。

「21世紀への伝説史 王貞治」では、一本足打法誕生秘話のエピソードを詳しく取材しています。一本足打法は、ホームランを打つための大切なバッティング技術が結晶となった独創的な打法なのですが、そのひとつとして、ホームランを打つため、つまり飛距離を出すために、バックスイングを大きくしながらも、最短距離でバットを出していくことができるバッティング技術なのです。体を弓のようにしならせた状態にすることで、その反発力を利用して遠くに飛ばす。これは、プロ野球選手として決して大柄ではなかった王選手が、パワー不足を補うための“生き残るための工夫”だったのです。

発売は、今年3月3日より発売いたしたが、城島選手には渡米前に何とか渡そうと、2月上旬には量産コピー前のデモ版を仕上げ、広報を通じて、それ城島選手にお送りしました。本当に見てくれていて、さらに、自分の打撃を取り戻す、きっかけになってくれれば、本当にうれしいことです。城島選手には、大リーグ日本人初の捕手として、何とかこの大きなチャンスを生かし、活躍をしてほしいと願っています。

次回、城島選手のインタビューからの証言をお伝えします。


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王貞治氏の監督時代だけを振り返るならば、長く不遇の時代が続きました。巨人軍監督時代は、日本一V逸の責任をフロントから問われ退団、そして、ダイエー移ってからも就任後4年間はBクラスで、ファンからは心無い仕打ちを受けつづけました。スター街道を進んできた王貞治氏にとっては今まで味わった事のないほどの耐え難き屈辱を受け続けた時代が、約20年も続いたことになります。

藤田さんは、その20年を振りかえって「王くんも、よくここまで耐えたなぁと思う」と、しみじみと語ってくれました。

 話題は、1996年の俗にいう「生卵事件」に及びました。「生卵事件」とは、ダイエーホークスが1996年5月9日の近鉄戦で大敗した後、日生球場から出てくる王監督にホークスのファンが生卵を投げつけた事件のことです。
 作品の製作にあたって、この事件の映像をテレビ局から取り寄せ編集作業をしましたが、とにかくファンの行為は余りにもひどいものでした。スタンドには、「お前ら、プロか?」「王解任」「その采配が、王まちがい」などの横断幕が一面に掲げられて、試合後は、グランドに火炎瓶が投げ入れられました。映像本編には、そういったシーンの一部を挿入していますが、余りにもひどい映像のいくつかはカットせざるを得ませんでした。特に、王監督が卵をぶつけられたシーンは、日本人として恥ずかしいので私の判断でカットしました。

 そして、こういった時の心境を藤田氏はこう語ります。
「味方のファンからやじられたり、罵声を浴びたりすると、監督は、その場ですぐにユニフォームを脱ぎたくなるものです。ましてや、卵をぶつけるなんていう非道な行為をされたら、こんな悲しいことはありません。」「ただ、ただ、王くん、耐えてくれよ、という想い」と、その一方で、「本当にこのまま監督を辞めてしまうのではないかという気持ちで、気が気ではなかった」そうです。

「生卵事件」翌日のインタビューで、王監督が、「俺は辞めない。勝てばファンも拍手で迎えてくれる」と発言しているのを聞いて藤田監督も、「我慢することも人生の修行のうちだから、これを糧にがんばれよ、王くんならきっと耐えられる」 と王監督にエールを送っていたそうです。

 そしてまた、藤田さんは、王監督が子どもたちのために推進していた世界野球財団(WCBF)についても、「王監督が忙しい間だけ」という条件で、その活動を引き継ぎ、王監督の活動をずっと支え続けてこられました。

 冒頭、野球関係者約60名の取材を通じて、最も印象に残った一人が藤田元司さんだったと記述しました。それは、藤田さんほど王監督のことを暖かく見守っていた方はいないと思うからのです。“いつも自分を捨てて周囲のために尽くす。そして、苦しいときほど力を発揮する”そんな精神で歩んできた藤田さんの野球人生が、わずかな3時間ほどのインタビューでしたが、十分に感じることができました。

藤田元司さん、ありがとうございました。安らかにお休みください。



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藤田元司氏は、長嶋氏と王氏が初めての監督就任した際、日本一になれなかった理由を次のように分析していました。
「“選手の時、俺はこうしてやってきた。だから、他の選手もこうすれば出来るんだ”という感覚が二人とも強かったのではないかな。指導する選手が不甲斐なく思うことも多かったと思うのです。自分のようにすれば出来るんだ、という感覚があると、監督業は務まりません。そこら辺を切り替えるには、現役を退いてからしばらく期間をもたないと、監督業は難しかったと思います。」

そして、再び2人のもつイメージについて触れ、
 「一見、長嶋くんのほうが、豪快で明るく、王くんのほうが、まじめで几帳面だというイメージがあるんですが、実態は全くの逆なんですよ。たとえば、ゴルフで一緒に回ると、慎重に、慎重に、手前から刻んでグリーンに乗せていくのが、長嶋茂雄という男。決してグリーンをオーバーするようなうち方はしません。そして、グリーンをどんどんオーバーして、積極的にグリーンを狙うのが、王貞治という男。世間では、長嶋のほうが豪快で、王のほうが緻密に言われるけど、実態は全く逆。王貞治というのは豪快な男で、大陸的ですよ。」
「自分の実態とは違うイメージが先行していったために、そのイメージを守ろうとして苦労したかもしれませんね。」
(※長嶋と王の実像が、世間の持つイメージと逆だということについては、チームメイトである、柴田勲氏、堀内恒夫氏、土居正三氏も同じように証言しています。)

 2人のスーパースターをこれほどまで分析をし、明確に言い切れる方がいたのか。藤田さんのインタビューが進むにつれ、プロ野球OBに取材しているというよりは、こんな貴重なインタビューはめったに取れないから一言一句吸聞き逃すまい、という緊迫した雰囲気を、スタッフ全員が自然と共有し始めていました。
 そして、ON2人にここまでいいきれる力と言葉を持っていたからこそ、巨人軍が優勝できないときにはいつも監督としてお呼びがかったのだと合点がいきました。しかし現実的には藤田監督が優勝したときには、“長嶋が育てた選手が活躍したから” “王が育てた選手が活躍したから”という評価が付きまといました。
 そこで「藤田さんが監督としての正当な評価をもらって無いのではないか。それについては、どう感じているのか」聞いてみました。

「(2人の育てた人材で優勝した)そういう批判はもちろんありましたよ。でも実際にやってみて、正直に、よくぞ、ここまで育てたな、と思いました。それは、感心することのほうが多かったです。育てた選手が活躍するまで監督を続けられなくて、それは無念だったと思います。でも、誰も監督の引き受け手がないのであれば、自分がやるしかないので、外(マスコミ)に目を向けることなく、内に集中して、彼らの育てた選手をどう使いこなすか、監督業に徹することしました。」

 そして、現在のホークスの王監督のことに触れ、「最初は、パーフェクトにしようとしすぎたんじゃないかな。でも、今のホークスの監督をしている王くんには、余裕が出てきたのがわかるよね。」

 藤田元司氏の人間味あふれる格調高い話に、スタッフ一同感動しつつ、インタビュー時間は予定の1時間を軽く越え、収録テープも3本目、ついに2時間を越えていきました。


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