<川は流れる>

Reiの好きなこと、ここだけの話

「ペーパームーン」

2018年11月03日 | ジュリーインタビュー
2000年に再演された時の記事です。

以前にも一回ご紹介しましたが、もう一回^^。

演出家 栗山さんとの対談です。


・・・・・・・・・・・・・・・・

栗山『僕はこの芝居はなにかを積み重ねて深めるという作品じゃないと思うんです。その場に本当に生きているキャラクターがいることを感じてもらう、そのライブ感というんでしょうか、それが新鮮なら新鮮なほど劇場も熱くなっていくような気がするんです。その意味では沢田さんほどの適役はいないと思います。「漂泊者のアリア」のときも、僕は本当に驚いたんですが、広い舞台に沢田さんがポンといるだけで、もう舞台が完成してしまう。その存在感がすごくて、やっぱり世の中にはスターはいるもんだと。今回も、それはまったく同じですね。ただ、モーゼというのはじつに情けない男なんですけど(笑)』

J『そう、情けない(笑)。でも栗山さんに言われて照れるしかないんですが、歌手というのは一人でやりますよね。本当はお膳立てしてくれる人なんかがいて、一人じゃないんだけれど、そういう気にさせられるわけです。そうなるとまな板の鯉じゃないですが、何もしないほうがいい。変なテクニックを使うと、逆にお客さんは引いちゃいますから、ただ一生懸命歌う。そういう経験がどこかに染みついているのかもしれないですね。』

・・・・・・・・・・・・・・・・

栗山『僕は沢田さんの魅力は「生活」じゃないかと思うんです。稽古場にいらっしゃるときとか、帰られるときとか、来る時と帰る時が魅力的というのもおかしな言い方なんですが(笑)。僕なんか稽古場に来るまでに思うのは、すれ違う人間がみな同じ顔に見えるわけです。たとえば信号待ちしていてパッと青に変わると向こうから、うわーっと歩いてくるんですが、スタイルや顔もみな同じ。そうじゃなくて、沢田さんは自分の顔を持っているし、自分の生き方もちゃんと持っている気がする。それがのまま舞台に出てくる。その自然体というのはいいなあと思うんです。本当、ご自宅なんかをちょっとのぞき見したいという感じがしますよ。(笑)きっと素敵な生活をしているんだろうなと。うちなんかひどいもんですから。』

J『そんなぁ(笑)。まぁ僕なんかはもとをただせば、ごく普通の人間だったのが、何か出会いみたいなことで、こういう世界にいることになってしまったわけです。それと話は違うかもしれませんが、ラクして、いいとこ取りするというのが、どうも性に合わないんですね。たとえば、商業演劇というと一週間も稽古をしないで本番という話を聞くと、商業演劇とはよく言ったもんだと思うんです。やっぱり今回のようにひと月稽古して、毎日顔を合わせてコツコツやって、そういう地道な作業の方が僕には合っているような気がします。それで汗だくになって、「よう頑張ってるな」と言わせないと気が済まない。だからできることは全部やらせてちょうだいという感じです。でも、やるからには、手柄は全部自分のものにしたいというところもあるんですよ。』

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ーースーパースター、ジュリーをずっと沢田さんは背負ってこられているような気がするんですが、ご自分では俳優業とのバランスをどうとっているんでしょう。

J『「背負っている」とかっていう言葉は僕は違うと思うんですよ。まぁ、保守的になっていないということだと思いますが、僕はこうでなければならない、とは決めてないんですね。おそらく、昔の点と点が結びついてそういう具合に言われるんでしょうが、僕にはそれより今日とか明日のほうが大切なんです。だから目の前の仕事を、汗を流して一生懸命にやる。それに俳優とのバランスということでは、そんなにコントロールできるものでもないですね。ただ、コンサートは僕の基盤にあって、それがあるからいろいろな仕事ができるということは言えます。』

栗山『舞台は民主主義なんですよ。だからもちろん沢田さんが主役なんですが、舞台の端っこにいる人も同等の力を持ってくれないと成立しないわけです。それを主役の人が分かっているか分かっていないかで、舞台は大きく変わってくるんです。だから沢田さんと仕事をしていて本当に楽しいですよ。舞台に立ってる人全部が一つの世界を共有できますから。そこがたんなるスターさんとの違いです。なかにはすごく偉そうな人もいて、僕なんかそれがいやで商業演劇はあまりやらないくらいなんです。』

J『周りから見ると熱狂的なファンがいると思われるかもしれませんが、僕が冷静に見ると、わりとみんな醒めているんですよ。自分たちは沢田とグルになっているという醒め方ですよね。でも、ステージや舞台があると毎日来てくれたりするんです。でも僕は「絶対に愛想よくしちゃだめ!」と出演者やスタッフに言ってます。そういうところばかりに向かっていると、僕はどんどん小さくなるしかない。僕は、もう少し遠くを見てるつもりですから(笑)。それより、この舞台にしても、男の人たちにもっと見に来てもらいたいですね。結構、面白がれると思うんです。』


・・・・・・・・・・・・・・・


同じことを言い続けているジュリーだけど
実は、この同じことを言い続けることがどんなに大変なことなのか
ということは
年齢を重ねてきた人たちはみんなわかっていると思う。

何十年も同じように全力で舞台に向かうことができる人はこの世にはほとんどいないと思います。
そしてその原動力は家庭だったり、ファンの愛だったりするのでしょう。

すべてお見通しのジュリーの前では四の五の言わず楽しむだけですね^^v


2018年:ジュリーとファンの関係についてよくわかる記事なので再度アップしました。
コメント (2)
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やさぐれ感満載

2016年06月30日 | ジュリーインタビュー
このブログでは雑誌のインタビューを要約したり
ピックアップしたりして(たまに全文掲載も)きたけど

これはー、、、と思って載せなかったインタビュー記事を
全文書いてみたいと思いまーす。
やさぐれ感がこれほど出てるのはあまりない、
たいがい、編集でどうにかされてると思うのだけれど
なんとなくこのインタビューは本物ぽいぞ、と。


ジュリーが最初の結婚したての頃。
「パリの哀愁」を撮ってたころです。

タイトルは
「人生すべて成り行きよ、あせらへん・・・」です。


___日本歌謡大賞、最初の投票では布施明くんと同票だったのに、決選投票でやぶれて、残念だったね。

J「オレの場合、一昨年もらってるし、この4年間ずっとノミネートされてるからね、まあ、
今度の「時のすぎゆくままに」は後半になってダークホース的に出てきて、久しぶりの
場外ホームランっていう感じだったんだけど、もちろんすごく惜しいとは思うよ。
でも、客観的に見て、オレのが本命にならないことはわかってたんだ。布施さんのほうが
総合的に言って、一馬身半くらいはリードしていたことは認めざるを得ないもの。
結果論になるけど、布施さんがいままで賞をとってなかったほうがおかしいんや。」

______それにしても、あれだけの接戦の末、負けたんだから悔しさもかなりのものだと思うけどね。

J「でもねえ、これがほかの人がもうひとり出てきて、三つ巴の血みどろの決選にでもなったんだったら、
もっといやだったやろね。見てるほうは面白いだろうけどさ。
だいたい賞なんていうのは、ひとりだけがだんぜんトップで走っていて、
対抗なし、穴馬なしでとるのが理想だと思うよ。その意味で、これまで文句なしに賞をとったのは
尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」くらいじゃないのかな。」

____ポップスは、賞の対象になりにくいということがあるんじゃない?

J「そういうことも言えるかもしれないな。いわゆるポップスというと、布施さん、オレ、そのあと
野口五郎、西城秀樹、郷ひろみと続くんだけど、なんといっても層が薄いんだよね。
これが演歌になると、三波春夫さんから細川たかしまで、入れ替わり立ちかわり、って
感じだもんね。これはまあ、日本の歌謡界の体質の問題で、急にどうするってわけにも
いかないんじゃない。吉田拓郎さんや、井上陽水さんたちみたいに
無冠の帝王でいけるんなら、それでいいんだけどさ。」

____ところで「紅白歌合戦」は、これまでにずいぶん出てるみたいな感じだけど
今度で4回目なんだってね?

J「そうなんだよ、まあ、前はグループ・サウンドが出られないってことがあったからね。
それが、今年はダウン・タウン・ブギウギ・バンドが出るわけだろ。それだけ
世の中が進歩したっていうことになるんやろけどね。」

____タイガース時代の仲間とそういう話することある?

J「いやぁ・・・。みんな、昔を振り返ってる暇なんかないもの。
会えばお互いに”よくヒネたなあ”なんて言いあうだけさ。」

____映画「パリの哀愁」の撮影のほうはどう?

J「フランス語をしゃべらなきゃならないんでね。まいってるよ。
相手役のクロディーヌ・ロージェさんがすごく親切なんで助かるけどね」

____正月には封切るという話だったんじゃない?

J「そうなんだ、だからオレは引き受けたんだよ。正月映画に出られるってことは
ひとつのメリットやからね。それがいまになって2月になるとか3月に
なるとか・・・。約束が違うと言いたいよね。
それでなくても暮れは忙しいのにさ。」

____作品そのものはどうなの?

J「それがまたひどいんだ。脚本もろくにできてないんだからね。
監督が筋書きだけを持って、その場その場で頭をかかえながら、
悪戦苦闘してるよ。結局はタレントにおんぶにだっこしてるだけのものなのさ。
それでもオレ達はプロだから、いちおう見られるような映画を作らなきゃならないらしいよ。」

____フランス・ロケはどんなぐあいだった?

J「別にどうってことないね。たださ、メシを食う時に、スタッフやなんかみんな
向こう流に前菜からデザートまで正直にもえんえん食ってるわけよ。
どうせ日本人ばっかりなんだし、日本料理屋もあるんだから、弁当とったらいいと思うのにね。
もちろん向こうじゃ、弁当のほうが高くつくけど、時間を金で買うことを考えたら安いもんやないかな」

____かなり不満があるみたいだけど、やることだけはやってるんだろ?

J「そりゃそうだよ、やる以上は自分の全部をぶつけて一生懸命やらにゃあ。
封切ってから不評につき上映打ち切りなんてことになるのはごめんやからね。
そんなことにでもなったら、それみたことか、歌だけ歌っとりゃいいのにって
またみんなに言われるもんね。」

____今年は、映画やTVドラマに出たり、フランスでレコード出したり、ずいぶん
幅広く活動したわけだけど、結果としてよかったと思う?

J「それなりの成果はあったと思ってるよ。ただ、こういうことをしてると、とにかく
小器用だとか、ナンデモ屋だとか思われるのがつらいね。
オレとしては、ほんとうの意味のエンタティナーを目指したいと思ってるんだけど・・。
賞の選考なんかになると、やっぱり歌ひとすじの人にやろうという意見が当然
出てくるんだろうなあ。」

____なぜ、そんなに賞にこだわるのかな?

J「賞の時期になって”オレはそんなものどうだっていいよ”と言える
度胸のあるやつがはたしているかね?」

____ひとつの曲がヒットするかどうかっていうのは、ある程度見通しがつくものなの?

J「ヒットの原因というのは、詩にやさしさがあるとか、いい洋服着てたとか
分析できるものじゃなくて、なんかマカ不思議な要因があるんだと思うんや。
そりゃプロだから、ある程度は見通しをつけなきゃならないんだろうけど
オレなんかは、いつもひとりで先に行きたい性格だし、なにごとも
出たとこ勝負ってもんさ。」

____仕事はおもしろい?

J「うん、いちばん面白いのはステージだな。とくに最近になって
人気がグーンとあがってきたような気がする。
何となく体でそれが感じられるのや、反応があるってのが一番うれしいね。」

____結婚してファンが減ったということはない?

J「離れていった人もあるやろけど、逆にホウってな感じでくる男性も多くなったし、
アベックできてくれる人も増えたみたいやし。」

____男は一生のうちに、学校、仕事、結婚と3つの選択のチャンスがあるというけど
あなたはその3つとももうすましたことになるよね。

J「そうかな。オレにとっては、学校も仕事も、自分で選んだんじゃなくて、
全部成り行きまかせだったと思うよ。
結婚に関しては決して成り行きじゃなかったけどね。
今の仕事だって、はじめは遊びだったのが、いつのまにかお金が入ってくるように
なってたって感じだもの。」

____でも、満足してるんだろ?

J「まあね。とにかくがんばればそれだけのものが出てくる仕事やから・・・。
決してアホではできないよ。オレが賢いというわけやあらへん。
わいはアホやないって程度や。
体はきついねぇ。でも、続かなくなったらマネージャーとけんかしても仕事を
おりればいい。からだがつぶれてもやるほど、オレはおひとよしにはなれへんよ。」

____’76年の仕事の予定はどうなってるの?

J「恒例の仕事ばっかり並んどるねぇ。正月は大阪フェスティバル・ホールと日劇の公演やろ。
春休みと夏休みはまた長い地方公演や。それに2月にはまたパリへ行ってレコーディング。
これが一番いやなんだ。向こうで売れたといったって、話に聞くだけだしね。
向こうでステージをやりたいよ。そうすれば、ほんとにオレがフランスで通用するかどうか、
はっきり答えが出るからね。
いずれにせよ、今年もまた自分なりに新しい可能性というものを追い求めて
頑張ってみようと思っているんや。幸い、体の調子もまったくいいし、乞うご期待といきたいね。」





やさぐれ感の中に情熱も夢も入ってましたね~。
これから!!花咲くジュリーの若いころのお話し。
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ジュリー49歳

2012年05月04日 | ジュリーインタビュー
(ACTシリーズについて)
「始めた頃は、なんでそんな暗いことやるの?とか言われたんだけど、実は“だって、これをやらないとこの期間仕事がないの”ってことだったりしたわけです。(笑)だけど、真面目に前向きでやっていれば、ドンドン自分も面白くなってきて、ビジネスとしても成り立っていくんですよね。確かに大御所と言われるような人と組めばきっとすごいことになるだろうとはわかっているんだけども、わかってるだけに面白くないというのもあって。」

「それも若さとか時期がありますよね。いわゆる旬で言うと30前後ね。40を過ぎると後は思い切り枯れていくしかないわけだから。でも枯れて行くしかないが故に頑張りようがあると思ってやってるんですね。このグラビア撮影なんかでも、親が見たら笑うだろうなと思いながら、それでもこんな格好はいつまでもできるわけじゃない。今のうちにやっておこうと思ってやっちゃうわけです。」

「僕ね、人から見たらどんなに平凡な男だったのかということを思い知らされたことがあったんですよ。自分では結構中学時代なんかは人気があると思ってたんだけど、有名になってから同級生たちに“目立たない人だったよ”って言われて、ホントかよ、ガァーン!みたいなさ(笑)しかもタイガースときも、その前のファニーズのときも僕が一番年下だったし、最後に入ったメンバーだったから、一緒にステージ上がったときは人一倍頑張らないとっていう思いは強かった。それに、自分がどんなにつまらない人間かというのを知っていたから、余計に頑張ろうと。すると“普段おとなしそうにしてるのに、そんなことできるの?”ってみんなが驚いてくれた。それが快感になっていったんですよね。」
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1998年ジュリーインタビュー

2012年04月23日 | ジュリーインタビュー
『僕は自分の歌をほかのプロが歌うっていうのが好きじゃないんですね。
歌が勝手に独り歩きしてほしくないって気持ちがあって。
法律的には止める権利はないけれど、カバーしてもいいかと聞かれたら
「いやーやめてください」って言う(笑)
僕が変わっているのかな、楽曲を大事にする仕方が人と違うのかなとは思うんだけどね。』


『最近のトリビュートものも実際聴いてみると、なんだ、これだったら本人の方がいいじゃない、と思うんだよね。
今の人は、今自分ができる範囲でしかやらないから。
自分の曲は自分にとっては宝物だからね。あんまりいじくってほしくないんですよ。』


『いつもニコニコしていたいなぁとか思うけどね。僕はやっぱり変わりもんなわけで。
長いものには巻かれたくない、臭いものにはフタをしたくないっていうのがあるんですよ。
正論で世の中を渡りたいと思うところがあるから。』


『一番ほっとするのは飲んでるときですね。飲んだり食べたりしているとき。
飲んでいるところで、あの本を読んだとか難しい話をする人がいるけれど、
僕は本を読む暇があったら飲んでます(笑)そう言ったりするの自分で気に入ってるんですけれど。
ものの見方として、本を読んで世の中のこれが素晴らしいと言われていると鵜呑みにするよりも、
あれ、ここにヘンなものがあるよって、自分の感覚で見つけるほうに、どうしても神経がいってしまうタイプなんですね。』


『名のある人とは組みたくないっていうのがどうしてもあるんですね。
コラボレートとか、触発しあう、みたいなのはタテマエだろうと。
ビッグとビッグをあわせても掛け算にはならないことはPYGでわかっているし、
物欲しそうに見える危険性がないかも考えます。
僕も他人をそういう目で見ては、簡単な仕事しやがってとか思いますから。
自分には絶対許せない。』




もう14年も前のインタビュー。
最近、ヒット曲をカバーされることが多いので、どういうふうに思っているんだろうな、と時々考えます。
心も体もまあるくなったジュリー。
他に考えることがたくさんあるから、そんなことどうだっていい、と言われそうです。
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男がホレる男

2012年02月29日 | ジュリーインタビュー
と、書いてあります(笑)「いつもアイドル」
あとこの記事には「淳子ちゃんとの噂の真相」について語ってますが
私なんて、淳子ちゃんとの噂があったなんて、
ほんっとに知りませんでした。

このインタビューで印象的なのは
「散歩なんてしないね。あんなムードっぽいことは大キライやさかい。
ペットもいやですな。」

ですって
今と正反対なところがなんとも人間って変われるもんだなーって思います。
まだ29歳のジュリーですもんね。
変わって当たり前だし、まだ突っ張ってる感じが
なんともかわいい~。

コメント (2)
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吉田建とともに振り返る『ジュリーをめぐる冒険』②(1990年)

2011年04月29日 | ジュリーインタビュー
ーで、エキゾティクスは5年間続いて、その後、一旦お二人は離れますよね。

沢田「うん、あの頃、ちょうど打ち込みとか出だしてね。スタジオ行っても、みんな何もしないでずっと待ってるだけなんだ。で、その頃から面白くなくなってきちゃって。」

吉田「今と違って機械が良くないわけ。今はマックとかQXとか使うんだけど、あの頃はMC4ってコンピューターで、速度がもの凄く遅いのよ。おまけに音が貧しいからさ。一個の音を選ぶのに一時間も二時間もかかるんだ。」

沢田「それで一日終わったりね。アルバムで言うと「女たちよ」とかあの頃。そのうち、僕がプッツンしちゃってさ(笑)。やーめったっつってね。なんかその機械にばっかりなっちゃってということも一つあったし。それから僕なんかどっちかっていうとヒットシンガーでしょ?流行歌手だから(笑)。で、歌が流行んなくなったら、やっぱ悩むわね。シングルが売れなくなると。“TOKIO”みたいにパラシュートまで背負っちゃたらその後が難しいだろうって言われたけど、結構もった方だと思うのよ。健とかみんな来てくれて、“ストリッパー”でまたギンギラの派手になって。だけどそんなに続くもんじゃないしなと思ってたこともあったから。これからはどうすべえかなと考えてたんだよね。で、ツアーの最後が渋谷であって、その後夏休みが一週間あって、そこでプッツンよ(笑)。人知れず休みたい、みたいな(笑)。で、エキゾティクスも解散、レコード会社も変わるって感じで。それまでとにかく休んだら終わりだと思ってひたすら働いてきたからね。その反動だったのかもしれないけど。」

吉田「だから、うまくいってる時はいいんだけど、ちょっと沈滞すると、どっかズレてんじゃないかと不安が襲ってくるてのはあるじゃない。それまでいろんなことにチャレンジして成功させてきた沢田研二だけに、余計にね。」

沢田「売れなきゃいけなかったからね。で、売れ行きが下がるじゃない?そうするとみんなアタフタするんだ。で、無理に売ろうとして、今度は“化粧やめてください。やめてたらもっと枚数増えてたと思います”って言う人も出てきたりさ(笑)」

ーその時に、そりゃ山もあれば谷もあるさ、って悠然と構えることはできなかったんですか?

沢田「あの時はなれなかったね。今はなってるよ(笑)。まだそれを許してくれないって感じがあったよね。また、考えるよりも“ええい、いいや”って感じでやる仕事の進め方を良くも悪くもしてたからさ。余計悩んじゃってさ。」

ーで、その後”COCOLO”というプロジェクトの3年間を経て、いまに至る経緯というのは?

沢田「しばらくバンドみたいにしてやってきたでしょ。だから今度はソロ・沢田研二ということでやろうと、大輪さんというプロデューサーになって、結構渋いメンバーを集めてもらったの。で、これが本当にオジサンばかりで、全員僕より年齢が上でね。かといって、何でもできる人ばかりかというと、結構我は強いわ、動かないわで(笑)。練習っていっても、ひどい時なんか、3回くらい音出したら、もう後ダべってタバコ吸って、コーヒー飲んで、“終わろうか”って。僕なんかもうパニックよ。“やってよ、俺、身体で覚えないとダメだから”って頼んでも、“いや、体力がついていかないんだよ”って、冗談だか本気だか分かんない答えが返ってくるし。また、最初はホールでやってたんだけど、そのうちメンバーが、もっとちっちゃいとこでやろうよ、その方が俺たち得意なんだよね、とか言いだして(笑)。インクスティックとかでもやったんだけど、何か僕からすると地味なんだよね。目の前で汗が出てるとか、自分はそういうんじゃない気がしてね。それで“そろそろ限界ですかね”って言ってみたら、“そうだねえ”ってこれが簡単なの(笑)」

ーそれでコンビが復活と?

吉田「漫才じゃないんだから(笑)。また電話がかかってきたんですよ。で会って、今に至ると。」

ーで、前作『彼は眠れない』があって、今度のアルバムが2度目のプロデュースになるわけですけど、プロデューサー吉田建の満足度というのは前作と比べてどうだったんですか?

吉田「やっぱり前作は、1枚目ということもあってプレッシャーが大きかったのね。それまでプロデュースしたのは氷室くんとか、山下久美子とか、年下が多かったけど、今度は年上で、尚且つ長い時間の中で自分の位置も確固としてある人でしょ。で、ジュリーがこうしたいという思いと、僕の思いが・・・言葉は悪いけど、ある程度妥協しつつ作ったという面があったと思う。今回のアルバムはその点お互いに合点がいって仕上がった感じがずっとありますね。1枚目はまだ往年のポップスというのになってなかったとこあったりしたけど。」

ー作曲陣はどういう基準で選ばれたんですか?

吉田「発注の仕方は、同世代の作曲家とメチャクチャ新人と、あと、わりと過激に突っ張ってる人とか、3つぐらいに絞って。今回だと新人はDualDreamがいて、同世代にNOBODY、あと鮎川君とかデルジベットの光君が突っ張ってるロッカーということで。抜け目なく自分の曲も入れてますけど(笑)」

ー沢田さんのボーカルの許容範囲って、ロックンロールからバラードから歌謡曲まで凄く広いわけですよね。でも逆に何でもこなしてしまうが故に、プロデュースするのが難しいってとこありませんか?

吉田「やっぱり声だけが最後のオリジナルだからね、そこが最大の武器であり、また敵であったりするわけですよ。すると1曲目の「a.b.c・・i love you」とかこういうタイプのロックンロールに、ジュリーの声は本当に“良い”っていうか。自分でプロデュースして言うのも何だけど、これがジュリーの本道だと思うんだ。」

沢田「一応、ありがとう、と言っておこうかな(笑)」


<完>


おまけ^^@

LOVES:①自宅②YOKOHAMA③海、山、空、風、雲、雨④酒⑤魚⑥野菜
HATES:①ミリン干し②炭酸飲料③繊維飲料④食塩水にさらしたリンゴ⑤ホラー映画⑥ディナーショー⑦ドリンク剤⑧選挙⑨ファッション⑩流行
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吉田建とともに振り返る『ジュリーをめぐる冒険』①(1990年)

2011年04月28日 | ジュリーインタビュー


ーお二人のそもそものなれそめというのは?

吉田「知り合ってから、足かけ10年目ですよね。79年の暮れあたりだから。で、前のバンドが解散するってことで、新しいバッキングのミュージシャンを探していたと。そうでしょう?」

沢田「そう、井上尭之バンドのあとのね。」

吉田「で、そんなつもりじゃなかったんだけど、呼ばれて行ったらオーディションだったの(笑)」

沢田「ほとんど君で決まりだけど、一応形式だから、とか言われて(笑)」

吉田「そうなの。それでいきなり、”勝手にしやがれ”を譜面で、それも初見でやらされちゃって。ストーンズが好きだって聞いてたから、きっと本人も交えて、みんなで“ブラウン・シュガー”とかやるのかな、フェイセスのオーディションもそうだったらしいからなあ、とか思ってたら、とんでもハップン、朝まで9分でした。」

ー沢田さんは建さんのどこが一番気に入られたんですか?

沢田「それはやっぱりテクニックですよ。テクニシャンだったよね、当時から(笑)、みんなも一番いいって言ってたし、あとのことは、一緒にやり出してから、だんだん知っていくという感じだったから。」

吉田「だって分かんないでしょ。沢田研二っていえば、スーパースターで・・・僕が関わる前のプロジェクトが、ちょうど例の“TOKIO”っていうヤツで、渋谷の東急パンテオンに、レコードジャケット複製したでっかい看板がかかっててね。で、パッと書いてあるの、“ジュリー・TOKIO”って。俺も、いいなあ、ロックンロールやるんだったら、いつかあれくらいのプロジェクトに加わりたいなと思ってたら、本当にそうなっちゃって(笑)」

沢田「ただ建が入って一年くらいは、メンバーも重複する人がいて、前の井上バンドの延長戦って感じが強かったんだけど、それから建がリーダーになって、メンバーも全員が新しくなって、状況的にも、ストレイキャッツとか出たり、ロンドン、ロンドンって言いだした頃で、そこから本当に始まったって感じだよね。」

吉田「アルバムでいうと“ストリッパー”ね。それでバンドにエキゾティクスという名前をつけて始動したと。そこから新たな方向に進みだしたわけね。」

沢田「エキゾティクスになるまではバックバンドと沢田研二って感じだったのが、今度は後ろのメンバーも負けず劣らずの衣装を着るっつうね(笑)そういうコンセプトになってきちゃって(笑)」

吉田「それまでは、やっぱりソロシンガーである沢田研二をいかにデコレイトしていくかというのがサウンドや舞台装置含めて、全体のプロジェクトの核になってたんだけど、今度はエキゾティクスという形の中でできる範囲の表現に変わってきた。いわゆるバンド・サウンドの作りですね。実は、ここに今のバンドブームの石器時代があるといってもいいわけですね(笑)。・・・だけど、やっぱりそれまでの世界と違うから、面食らったことも多かったよね。今と違って、ジュリーは1日に2回公演してたもんね。渋谷公会堂なんか、昼の1時からロックンロールしてるんですから(笑)」

沢田「マチネが毎日あるっていう(笑)。ほら、それまでは、どちらかというと興業の世界だから(笑)」

吉田「そう、ロックとかニューミュージックとかとも全然システムが違うんだよね。ツアーに行くと、地元の凄い人が迎えに来たりね(笑)。やり始めた最初の頃は、追っかけのファンの人も一杯いるしさ。でも、いわゆるアゴアシ、マクラって言うんですけど、それはちゃんとしてて、ツアーの移動の電車もグリーン車だし、ホテルもいいとこ泊まらせてくれるし。それまでのミュージシャンの生活じゃ、そんなことまずなかったしさ。結構“へえ~”とか思って、それで逆に距離感じちゃったですよね。ステージの時間は共有するけど、それ以外では全然僕らの世界と違うんだなっていうのはよく思ってたね。」

沢田「環境っていうのは、自分たちがそうしていると、そういうもんだと思いこんじゃうとこがあるからね。グリーン車だわ、一流ホテルだわ、メシもみんなで食うわ、量が足らないっていえば増えるわ、みたいな(笑)、そういうことやってると、それがあたりまえだと思っちゃう。で、みんなで一緒に行動して、ホテルの裏口から入って、従業員エレベーターで上がって、人目に触れずに部屋に入る、とかいう世界でしょ。そりゃ“こりゃ大変だな”って思われたところもいっぱいあると思う。」

吉田「あの頃はバスの中で着替えとか年中でしたね。で、俺もハッと気がついたら芸能人っぽくなっていると(笑)」

ーエキゾティクスが始まってからは、吉田さんはプロデュース指向はもうあったんですか?

吉田「そんなこと、おこがましくて思ったことない(笑)。いまこうなったからアレだけど、当時はそんな大それたことは全然考えたことがなかった、ちゃんと木崎さんというプロデューサーがいたしね。」

沢田「でも、時々、僕が作った曲を、建に“これアレンジして”とか言ってね(笑)」

吉田「“ラ・セゾン”をパッとお当てになったから(笑)。曲の発注が相次いだんですよ、あの頃(笑)。高樹澪さんとか、そういうのをやってて、それは“はいはい”ってやりましたけど。あの頃は正月から12月までジュリーでした。はい(笑)」


②に続く
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2003年6月号 BRIO

2010年04月22日 | ジュリーインタビュー
私のお気に入りの写真!
記事は長いですが抜粋してお届け^^。



『・・・そのうち派手な演出も「もういい加減にええ」という瞬間が来るはずだとわかっていました。ただ「その時」は、自分で選ぶというより人に選ばれてしまう。それを敏感に察知しなければならない。でもそれは難しいことでした。
ああいうパフォーマンスが終わりを告げるのと、歌番組が消えてお笑いがブームになるのと、ちょうど時期がダブっていましたね。』

『このところは好きなことしかやってきてない。果たして自分のためになっているかわかりませんが、いわゆる「やっぱりやめときゃよかった」をなくすように頑張っています。「自分をあまり高く売らないようにしよう」ということを考えるようになりました。』

『振り返れば、なぜかいつも僕は人と違うことをやる結果になるんですよ。たとえば、僕の世代のミュージシャンが、いろいろな人と接触してコラボレーションというものをする。そこから生まれるプラスアルファを、掛け算だと考えるからだろうけど、僕はどう考えても割り算にしかならんのじゃないだろうかと思うんです。それだったら本当に自分の気持ちがすっきりするような、ちっちゃい喜びでいいから、取引したみたいなことがないようになりたい。「こんだけしんどい思いしたから、こんだけは取る」という発想じゃなく、ね。亡くなったマルセ太郎さんなんかも、メジャーとはべつの発想で活動しておられたけれど、メジャーな世界にも認められていた。自分にはそういうスタイルのほうが合うんじゃないかと。人が求める派手な沢田研二、それもそう簡単に消えるものではないことも思い知ったし、拒否も拒絶もしないけれど。』




今回はこれで終わり~。写真が歪んですいません^^;
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FLIX ③

2010年04月17日 | ジュリーインタビュー
岸部「清順さんっていうのは面白い監督だよね。でも小栗さんの演出方法は好対照っていうか。小栗さんは自分で脚本を書いて、その中にある一つの台詞は、あらゆることを整理した時に残ったというのが書いてあるから、その台詞を発する時に、余分なものがついていたり、それ以下の言葉になってると駄目なのね。
 今までは沢田は歌の世界でも主のところ、何て言うのかヒットの場所みたいなところでずーっと来てるでしょ。僕なんかは芝居をやり始めたとは言いながらも、脇の方でちょちょっと出るやつがあったりとか、主役の人の側にいたりとかっていうふうにずっとやってきたんだけど、『死の棘』で主役をやって、主役の場所というのはこういう場所なのかってその時初めてわかった。相当のエネルギーがいるなと思ったね。全部自分にかえって来るみたいなところがあるね。同じ俳優といいながらも、ポジションの違いによってこうも違うのかって。だから見方まで変わってくるもんね。」


沢田「僕はあまり主役だっていうことを意識したことはないんだけどね。まわりに乗せられるというところがあったから。どっちかというとまな板に乗せられないと頑張らないというところもあって。自分から探して行くっていうタイプじゃないから。それが、まあ結構良かったのかもしれない。楽天的なところはあるよね。」

岸部「う~ん、楽天的なところはあるよね。」

沢田「だから歌の時なんか毎回毎回いろんなこと考えていて大変でしょうとか言われる。いや考えるのは別の人なんですよと言っても、そんなことはないでしょうって。でも実際にはスタッフが考えてくれた中で、これは好きっていってるようなやり方をしてきたから。」

岸部「この前、沢田との共演につてい聞かれて最近いつも思うんだけど、いままで沢田とはタイガースの中であまりにも一緒にいた期間が長いし、それ以降もずっと一緒にいたから、二人が映画の中で並んでいて、二人が一緒だという感じが出るうちはマイナスっていう意識がどっかにあるのね。だからあまりそういうことが全然浮かばないようになれば共演したいよね。沢田の映画にどっかで絡む役で出るっていうのは一つの楽しみであるから。
いつかはやりたいと思ってるけどね。」


沢田「ドラマにしろ映画にしろ最近、男の話っていうのが少ないでしょう。あってもやくざっぽい。喧嘩するとかだから。それ以外でなんかね、共演できればいいなと僕も思ってるけど。」

岸部「沢田の側に長いこといていろんな部分を知ってることがあるでしょ。ちょっとコミカルなおかしさの部分とか、ものすごくいいかげんな部分とか、なんかボサーっとしてるところとか、外側の人が見ているところじゃない自分が思っているところがあるから。そういうのがうまく出せるような話なら照れ臭さがたぶん消えてうまくできそうな気がするけど。だからそういうので誰かうまくキャスティングしてくれたらいいかなーって思ってるけど。でも、いままで映画とか観てて沢田のこういう部分は初めて見たなーというのはないね。」

沢田「やっぱり自分自身にないことは出来ないからね。無理してやっても、あぁやってるなあと思われることやろうし。でも自分ではない人物を演じるわけだから多少は頑張ってはいるんだけど。それにしたって結局演技をするのも自分自身を出すことでしかないから。
サリー(タイガース時代の岸部一徳の愛称)の普段話している時のボソボソっていう感じは、芝居になるとあんまり要求されないことのほうが多いよね。」


岸部「普通にしゃべると“もうちょっと声を張って下さい”とかね。驚くシーンとかでも、“それじゃあ驚いたように見えません。もうちょっと驚いた表情をしてくれないと見ている人にわかりません。”(笑)とか言われる。“ああわかりました”と言いながらも、ちょっとはそういう要求に答えるようなことをしたって、これ以上やるともう恥ずかしくって出来ないという、その範囲で通すということがね、難しい。僕らはどちらかというと無個性を個性にしているところがあるから。できるだけそういった無個性の部分を崩して何かをやっていくというと自滅してしまう、そういう恐れがあるから。」

沢田「僕らは芝居のイロハを習ったわけではないし、まあいろいろ我流で、見よう見まねでやっている人間だから。人にわかりやすい芝居をするようになったら、僕らがやる意味がないもんね。それだったらちゃんとイロハのわかる人がやればいいわけだし。」

岸部「芝居のうまい人はたくさんいるからね。」

沢田「それとね、うまいとされている人が、それはわかり易い。わかり易い以上の何かがありますか、みたいなものがあるよね。芝居は説明であってもいいのだが、もちろんそういう人たちも中にはいないと困るっていうこともあるだろうけれども、全部がそうなっちゃってはね。そういったうまい人たちがいる中で、あえて自分たちが起用されたっていうことは、闘ってないようで闘ってきたんやろうね(笑)。
テレビなんかに出ると本当によく言われるんだわ。“もうちょっと明るく、明るく”って。“ハイ、そうですか”って明るくやっても自分じゃないって。自分で見てても嫌だし。だから視聴率がよくたって嫌なんだよね。もう二度とこういうのはやるまい、もうちょっと暗いのをやろうって思うのよ。僕らのやりようっていうのは、テレビなんかのやり方に合わせるっていうのじゃないもんね。」


岸部「と言いつつもなかなか難しいよね。沢田をいいと思ってる人が十人いると、よくないと思ってる人が十人いるはずなんだ(笑)。」

沢田「そうそう。十人のうち十人から良かったですよと言われたら、まずいって思わなきゃいけないという赤信号だっていうことですよ。」

岸部「そういうところが面白いといえば面白いよなあ。」

沢田「ひょっとしたら僕たちの好みっていうのは近いかもしれない。」

岸部「うん。似ているところは結構あるね。顔が似てるっていうわけじゃないけど。」

沢田「でも表情なんか時々サリーみたいな顔をしているなって思うときあるよ(笑)。」

岸部「そういう時はすごい暗い時だね(笑)。うっかりすると似ている時がある。やっぱりどこか共通しているところがあるんだね。」


      




この対談の7年前、1984年『ときめきに死す』で一度共演しているふたり。
でも、ワンシーンのみで、サリーのゲスト出演といった趣。

そして2006年にはTVドラマ「マチベン」で待望の共演。
もう4年も前になるけれど、見直して次回、感想をアップします~^^v
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FLIX ②

2010年04月13日 | ジュリーインタビュー
沢田「うーん、キャスティングからそうだし。最初の思い通りのキャストでやるというのは相当エネルギーがいるけど、何人か断られてある程度妥協してやるというのも、妥協した分だけカバーしないといけないから、エネルギーは同じくらいいるよね。だから僕なんか出演の依頼が来た時に、断るっていうことが本当に申し訳ないと思ったりするんだけど、こればっかりはやってみないとわからないっていうのがあるから。『ヒルコ』にしたって、塚本さんみたいな若い人が作るんだったら、役者も若い人を起用してね、それこそ今の時代の人気あるスターを使って撮ればいいんじゃないかと思うんだけど。まあこっちに来てくれたんだから。最初は2、3回断っていたけど、それでも誘ってくれたから、やっぱりこれはホンマやから断っちゃいかん!と思ったしね。そういういとこでも本当にこだわってくれると、こっちも力を出しやすいね。」

岸部「丹波哲郎さんがこないだ一緒に仕事をした時言ってたんだ。“俺はとにかくどんな仕事が来ても最初は断るんだ。それでもう一度言って来ても断るんだ。”って。“それでもまた言って来たら、それは絶対俺が欲しいんだ”って(笑)。ホン(脚本)を読むとか読まないとかじゃなく、とにかく最初は断る。それで向こうが言ってこなかったら、もともと誰でもよかったんやという。」

沢田「そういうことはあるかもしれないね。」

岸部「まあ『死の棘』の時なんかも僕をキャスティングすることに相当反対の人とかいたけど、監督がどうしてもやりたいって、最後まで通したという、そういうのがわかると結構責任感を感じるでしょ。まあ、そういったプレッシャーとかマイナス材料ばかりが出てくるのね。監督はそういう不安とかを引きずったままでやってくれっていうの。そういう状態のままでやっていくうちに何かを見つけてくれればいいというように、まあいろんなことを考えてくれる監督だったね。
僕は沢田をずっと見てきたりしてて、昔っていうとおかしいけど、以前は沢田にはジュリーっていう部分があってね。そのジュリーって部分を映画にもってきたらどうなるかということが結構あったような気がする。」


沢田「そうだね。」

岸部「『ヒルコ』とか『夢二』とか観ると、あのジュリーじゃなくなってるんだよね。完全に沢田研二を、俳優という沢田研二をここに使いたいっていうのが画面から見えてくるんだよね。さっき言ってたように、もっと客を動員できる人気のあるのを使えばいいっていう簡単な理屈じゃなくてね。」

沢田「そうじゃないって思ってくれるところが僕たちは好きやからね。映画を観てたって、そりゃ、人気のある若いやつでやってて楽しいかもしらんけど、何かそんなもんやないでって思うし。昔は自分が言われてたんだけど(笑)。若いっていうことは確かにいいことだけど。いろんなことが出てくるというのは若いときじゃないもんね。三十まではまだ若者と思われて、一人前にと思われないところがあるけど、四十になると人の見方も変わって、何かを無理してでも使ってくれるというのが起こってくる。数はものすごく少ないけど。その代わり楽やけどね。」

岸部「『夢二』なんかもかなり楽にやってたの?」

沢田「楽にさせられた(笑)。芝居しようと思って結構考えていって、やってみせると、監督に“すいません、真面目にやらないでください”って言われるの。清順さんに最初に言われたのは“沢田さんはどちらかというと暗めの役が似合う方の人だと思うんですけど、今回は明るくやってください”って。台本を読んで現場に行くと、台詞とかが変わっているの。細かい変わり方やがらっという変わり方まで、もう何が出てくるかわからないという現場なの。原田芳雄さんには“沢田さん、考えない、考えない。現場が勝負。現場処理!”って言われたの。それでだんだんわかってくると今度は、“リアリズムで行きますから。映画はリアリズムじゃないと駄目ですよ。”とか平気で言う監督なのよ(笑)。」

岸部「それじゃあついて行くのが大変やね。」

沢田「でもついて行かんと始まらないもんね。慣れてくると別なことを言って、翻弄しつつ、結局は肩の力を抜いて自然に、やり過ぎずっていうことを言われてると思うんだけど。」
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