津波被災者の家族

長女が04.12.26スマトラ沖地震の津波により、タイ、パンガー県カオラツクの海辺で遭難した。

故長女7年3個月目の命日に

2012-03-29 16:56:17 | Weblog
 3月22日から一週間、郷里の高知市に春彼岸の墓参旅行を妻と二人で行なつた。  母が4年前に逝つたため、郷里の我が家は空き家になつているが、年2回春秋の彼岸には墓参の帰省を年中行事としている。  丁度、高知市周辺では、坂本竜馬の生誕地キャンペーンを一昨年のNHK福山竜馬伝を引き継ぐ形で、その足跡をたどる旅を案内するイベントが3月末まで行われている。  高知駅前には,明治維新の三人の郷土の英傑(武市半平太、竜馬,中岡慎太郎)の立像が建ち並び、竜馬社中なる、竜馬にまつわる話題を喧伝する映像やみやげ物のイベントが催されていた。また別棟では、地元踊り子隊によるヨサコイ踊りの実演も、休日には一日数回行われていた。 そして、妻の実家は高知市から西に40km(JR約1時間)ほど離れた須崎市吾井の郷(JR吾桑駅近郊)に一際目立つ二階建ての日本家屋であつたが、8年前に家督を継いだ兄が売却し墓所も三浦霊園に移した。 今回十数年振りに故郷に帰った妻は、親族知人に感激の再会を果し、元実家の後継者にも面会し、その花壇に彩りされた庭や田地の変貌振りに驚いたと、故郷の印象を語った。  郷土入りした22日 高知城の桜が、日本で最初に開花したとメデイアは報じたが、24日墓参の折り 近くの氏神様の参道の桜も咲き始めていたし、28日帰途に着いた高知空港通りの桜並木は8分咲きであった。  8年前の9月下旬 故長女は、秋彼岸の郷里での墓参と桂浜荘(国民宿舎)の一泊旅行を、私たち父母にプレゼントしてくれた。その時、特養介護施設で療養中の脳血管性、認知症の祖母を見舞い、やや長い握手によりお互いを認識することが出来たと、彼女は悦んでいた。 そして墓参の後 郷里の親類や知人に挨拶をし、桂浜荘の太平洋の見渡せる部屋で 親子3人水入らずの一夜を過ごした。翌日 海をバックに部屋の縁側で、また竜馬の銅像下で記念撮影をし、午後母子で高知城を見物し、別行動の私を残して二人は竜馬空港から帰京した。 斯様に 掛け替えのない親孝行な娘を、私たちは 世紀の自然災害(インド洋沿岸地域に津波警報システムの欠落という人災の趣きあり)インド洋津波で3000km余離れたタイ王国の海辺で失ったのである。  そしていま、野田政権は消費税増税案を無理やり閣議決定し、2年後の8%~10%への増税に政治生命をかけると意気込んでいる。 これは 世論調査で国民の60%以上が反対している消費増税に、財務官僚の操り政権として、社会保障や税の一体改革の流れを無視し、財政の無駄の削減も無く、ただ消費増税にのみ邁進する虞行は、"Unallowable"な政治手法だと思う。

最近の出来事(3.11から一周年)

2012-03-12 17:22:50 | Weblog
  3.11から昨日、一周年を迎え、東北三県や各地の被災地で、地震発生の14時46分に合せ鎮魂のサイレンが鳴り、遺族らによる黙祷と追悼の祈りが捧げられた。 しかし、仮設住宅での高齢者の引きこもり、心のケア、立地の不便さ等問題点も多く、被災跡地は瓦礫の仮置き場への片付けのみで、最終処分の受け入れ先は展望が開けない。  また、高台移転や地元産業特に水産業の復興復旧は、国の政策決定が遅れ 被災自冶体の組織弱体化、予算配分までの手続多重化による遅延など、復興進捗への阻害要因が足枷となつている。 一周忌にあたり、被災地の声を聞けば、それは唯時間の区切りにしかならず、”頑張れない”心の傷が癒えていない 被災者が多いことを改めて知らされる。  そして、福島原発事故の警戒地域では、防護服に身を包んだ被災者がいまだ不明の犠牲者に献花や黙祷する姿があり、出口の見えない原発事故被災の人為的原因による多重災害の悲惨さをきわ際立たせている。  佐藤福島県知事は、再生可能エネルギーを推進し、原子力に依存せず發展可能な社会を目指す、とした”福島宣言”を世界に発信した。         その後、野田政権は”社会保障と税の一体改革”と称し、財務官僚の操り人形よろしく、不退転の決意を唱え、消費税増税の閣議決定に向けて党分列も厭わず邁進する日々である。    また、関西電力の大飯原発12号炉の再稼動に向けてストレス、一次テストの結果、保安院と野田政権は早期稼動に前向きであるが、地元自治体と内閣安全委はより詳細なテストと新しい安全基準の策定を要求している。 何れにしても、首相野田は、米国、財界、官僚の代弁者に終始し、普天間,TPP,消費税など国民多数の要望に応えられず、リーダーの資質に欠けた Stupid&PrimeMinisterであり、震災復興や原発事故対応にも、展望が開けない状況が続くと思われる。       そして、この3月11日はインド洋津波で遭難し、安否不明であつた私の故長女が、7年前の3月上旬タイ現地の収容施設で、冷凍保存の状態で見つかり,外務省書記官、歯科医師などの立会いで タイ式葬儀をプーケット郊外のプラトーン寺で3月10日に行い、次女とともに、遺骨をタイ国際航空便により連れ帰つた日であつた。 夕方、成田空港で出迎えた元同僚と共に、桜台の嘗てのホームに2個月半振りに無言の帰宅をした夜、彼女の部屋で同僚たちと一所に哀悼と追憶に満ちた、お通夜のひと時を過ごした特別の日である。 そして、同年7月下旬、勤務したk出版社の支援で 江古田斎場において法曹関係者や妻の属する宗教団体など、交友のあった150人余の参列者が集い、彼女に相応しい華やいだ中にも愛惜に満ちたお別れ会を行い、今は三浦半島,三崎口の海の見える丘の上で永遠の眠りに就いている。