Tomotubby’s Travel Blog

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生首 (3月の「雑文」)

2009-03-19 | Japan 日常生活の冒険
倉橋由美子の魔力」なる特集につられて四月号の「文學界」を買った。この特集の他にも、ポルトリガトのサルバドール・ダリ邸を訪ねた回想をもとにした横尾忠則の小説など面白いものが見つかる。私はダリ美術館のあるフィゲラスを訪れたことがあるが、その先にあるポルトリガトまで足を伸ばす時間の余裕はなく、涙を呑んだ経験がある。ダリの描いた「記憶の固執」などの背景として現れる特徴的な海岸の景色を見ることはついぞ叶わなかった。

その代わり、フィゲラスからバルセロナへの帰途に、「天地創造のタピストリー」を見にへローナに立ち寄った。タピストリーの収蔵された高台のカテドラルから望んだ川沿いの集落が、夕日に照らされてとても綺麗だった。わたしは旅先で川や運河の流れの向こうに夕日が沈むのを見るのが好きだ。少し頭を巡らせるだけで、ピサ、ヴェローナ、蘇州、フエ、マニラ、といろいろ思い出すことができるくらい。橋の上から眺めていると、熱い夕日が天球にできた通路を通り、川の流れの中に融けていくような気がする。

へローナはフランス語読みするとジローナ、レストランの多い所で、ガストロノミーの集う街でもある。国境が近いこともありフランス料理に近いスペイン料理が味わえる。昼と夜の境目のひととき、食事にたっぷりと時間を割くことで、生活の豊かさのようなものを感じたのを覚えている。

ただ、昼と夜の狭間の短い時間には、何か得体の知れないものが辺りを彷徨っているような気配もする。マレー半島でポピュラーな Penanggalan なる「抜け首」妖怪も然りだろう。女の生首が、首の断面からはらわたを晒して夕日の街を高速度で飛ぶのだそうだ。



「文學界」には、辺見庸の詩作が載っていた。題して「『生首』より」。その中からの詩篇「秋宵」。


秋宵

秋立つ宵のこと
蒼穹を西の方によこざまに
一個の生首が飛んでいった
軍鶏のちぎれたあたまみたいな
筋ばった人の首であった
紺瑠璃の空を
東から西へ
首がわたりきるのに
三分と四十一秒を要した
その間赤いものは
なにも滴ることがなかった
雷はなかった
首は喘いでいるようであった

あれは憤怒の顔ではなく
忍苦の形相でもなく
口を半開きにして
世の中をなめたみたいに
ヒャラヒャラと
笑っていたようである
真相はつまびらかでない
飛ぶ首にかんしては
それ以外の諸現象は事実ではないので
他に伝えるべきではない
一個の首が蒼天を西の方に
ビュービューと飛んでいった
ただそのことのみを想像せよ
首が天翔た
秋立つ宵
私はじっとそれを見あげていたのだ
私の生首を


芥川賞作家である辺見庸に対して、ジャーナリスト出身という漠たる印象しか持っていなかったが、自在に詩作までを物にして、随分器用な人のように思える。ここでいう生首はまさしく男性で、季節は残暑の残る立秋、飛ぶ夕空は蒼空、雷はないから積乱雲もなく、首から滴る血すらもなく乾いた印象だ。対して、女の Penanggalan が東南アジアのむっとした夕焼け空を、はらわたを垂らしながら誰かの血を吸いに飛んでいくのは、どうも湿気が高いような気がする。

このようなことを考えながら、メドゥーサの、ペルセウスに切られた首のことを思った。蛇の髪を持つ女の首からは、内蔵こそ垂れ下がってはいないが、血が「滴り」、その血から「天翔る」有翼の白い天馬ペガサスが生成したと言われる。「立秋」頃に見える星座になったペルセウスは、メドゥーサの首を携えて、例の翼のあるサンダルを履いて飛行する最中、囚われのアンドロメダを見つけるたのだった。その際メドゥーサの首は直視すると石になってしまうので袋に入れられていた筈だ。切られて運ばれる首の断面からは依然血が「滴り」落ち、地上に落下して赤い珊瑚や蠍が生まれたとも言われる。女の首はどうも湿度が高いようだ。



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