明日に向けて

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明日に向けて(1007)高度経済成長と新自由主義に共通する非人間的価値観・・・年頭に世界を俯瞰する-3

2015年01月07日 15時00分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150107 15:00)

現代世界のあり方を俯瞰するための論稿で、これまでケインズ主義の問題意識性とその崩壊、新自由主義の跋扈について触れてきました。
私たちが直面しているのは弱肉強食の新自由主義であり、それのもたらす社会の不安定性、いや社会崩壊そのものです。
たった今も原油価格の急落を背景に、ロシアのルーブルが急落し、モスクワから「外国人」が逃げ出し始めたと言われています。
私たちはこうした現実をよその国のものとして眺めていて良いのでしょうか。僕はそんなことはないと思います。

円もまた急落しているのです。数年前には1ドル80円であったものが今は120円。つまり3分の2に価値が落ちているのです。
輸出に有利だとか輸入に不利だとかいうことを越えて、こうした政治経済的なあり方そのものが社会の理不尽さを作り出してしまっています。
例えば「こんなときにドルを溜めこんでいたら良かった」と思う人もいるかと思うのですが、しかし例えば1ドル80円の時代に100ドル(8000円相当)持っていたとして、今、換金したら12000円になるわけですが、差額の4000円はどこからくるのでしょうか。
何もないところから生まれてくるはずなどありません。もともとは誰かが汗水流して働いていて作り出した価値が何の労働も媒介しないで入ってくるのです。こんなことは理不尽ではないでしょうか。

いやそもそもせっせと働いて貯蓄をしてきた私たちの国の人々の預貯金は、多くの場合、円で貯められています。だとしたら円がどんどん安くなることで人々の資産はどんどん減っているのです。
ドルで100ドルあったら80円の時代より120円の今なら4000円儲かる・・・というのは、実はせっせと働いて円を溜めこんだ人から4000円をかすめることができるからです。
ようするに「ドルを持っておけば良かった」と言うのは、円を持っている人の貯めた価値を奪えるからなのです。
なのに自国通貨がどんどん安くなっていくことを喜んでいる今の社会のあり方の中で、私たちの多くは何かを騙されているのではないでしょうか。

現代社会では誰もこの根本問題に問いを向けなくなってしまっています。その結果、結果的に生じてくるのは働くことを尊重する価値観の崩壊です。
僕は何も始終働いていることが美徳だと思っているわけではありませんが、しかし何もせずに他人の労働の成果をかすめ取っていくのは泥棒と同じだと思います。
にもかかわらず現代社会では「儲かれば良い」という価値観が支配してしまっていて、わずか数年で貨幣価値が極端に上がったり下がったりする現実に誰も疑問を持たなくなっています。
モスクワからは人々が逃げ出している・・・という「噂」がマスコミを賑わせているというのに。

今、このことを問題にするのは、実はこうした「儲かればそれで良い」という価値観は、新自由主義の前のケインズ主義のもとでも一貫していたことです。というよりそれが資本主義のエートスだとも言えます。
このため日本に焦点をあてて考えてみるならば、実は高度経済成長の中でこそ、私たちの社会のモラル崩壊が進んでいたのです。
僕は当時の自民党に反対していた社会党、共産党、そして新左翼グループの多くが、この高度経済成長の中で進んださまざまな事態に十分な批判ができてこなかったのではないかと思います。
なぜかと言えば「儲かればそれで良い」という発想の前提にある「経済が成長すれば社会は良くなる」という価値観の矛盾を、さまざまな「左翼」も十分に批判できていなかったように思えるからです。

その点で、今、猛威を振るっている新自由主義批判の中で、かつてのケインズ主義的なあり方に戻れば良いのかと言えばそんなことはないこともしっかりと把握しておかなければならないと思います。
だからこそここでケインズ主義、正確にはアメリカナイズされたケインズ主義と言うべきなのですが、そこで深められた価値観と、新自由主義のもとで今も強められているそれとのつながりをここで見ておく必要があると思います。
それは私たちが見ずごしてきたもの、「経済成長」の魔力の中で見失ってきたものを捉え返すことでもあります。
そのための足がかりとして恩師、宇沢弘文先生の論考の中から幾つかの考察をご紹介したいと思います。

取り上げたいのは『近代経済学の再検討』(岩波新書 1977年)です。なぜこれを取り上げるのかと言うと、この書は実は宇沢先生の痛烈な自己批判の書でもあるからです。
宇沢先生は若くしてアメリカに渡られ、ケインズ学派の経済学者として目覚ましい成功を遂げられました。しかしその後にベトナム戦争の激化の中で多くの経済学者がアメリカの戦争遂行に協力するのを見て耐えられなくなり、日本に戻ってこられました。
日本に帰ってきて宇沢先生が見たのは、高度経済成長の影に隠れて広がっていたさまざまな公害でした。宇沢先生は各地の公害現場を歩かれ、どの場においても「これは自分たち経済学者の作り出したあやまりだ」と感じて痛切に己を問われました。
そのために宇沢先生は悩みに悩んだ挙句、かつての自分の恩師、同僚、仲間たちが築き上げた体系でもある「近代経済学」の批判に踏み込まれたのでした。

そんな宇沢先生は日本の高度経済成長を次のように喝破されています。
「ひとたび高度経済成長のもたらしたものをその実質面に立ち入って、仔細に眺めてみると、その内容は、じつにきわめて貧困で殺伐としたものであることに気付かざるをえない。
農村と都市とを問わず、自然の破壊と社会的、文化的環境の荒廃はまさに目を覆うばかりである。
一見豊かにみえる消費生活も利潤追求のための製品多様化であったり、外見的な欲求にもとづいての空虚な消費形態によって左右されたりしていて、その実質的内容はむしろ貧困化していると考えざるを得ない場合が多い。」(同書p4)

宇沢先生はこうした傾向は、近代経済学の二つの潮流であるケインズ主義も新自由主義もともに前提としている新古典派経済学のあやまりを反映したものと指摘されています。
「さきに、日本の高度経済成長を生みだした要因の一つとして、市場機構の効率的な運用ということを挙げたが、高度経済成長のもたらした好ましくない面は、多くこの点にかかわっている。」
「市場機構の特徴は言うまでもなく、希少資源の配分が私的な利潤の追求を動機としてなされるということである。たとえ社会的な観点からいかに必要であり、また望ましいと思われるものでも、採算の取れる価格で多くの人々に需要されないかぎり、その生産に希少資源を振り向けることはない。
しかも人々はあくまで私的な動機にもとづいて選択し、往々にして局所的かつ短期的な視点に立って行動する。他の人々にどのような迷惑を及ぼそうと、また環境をどれだけ破壊しようと、法にふれないかぎりその点に配慮する必要はなく、私的な便益と支払うべき価格とだけに依存して需要が決定される。
企業もまたできるだけ自らの利潤が大きくなるような広告、宣伝と販売手段をとり、この傾向は市場の競争条件がきびしくなればなるほど強くなってゆく。」(同書p5~6)

なぜこんなことが許されてしまうのでしょうか。宇沢先生はそれこそがケインズ主義も新自由主義も共通のベースとしている新古典派経済学の考え方なのだからと指摘します。
「このような経済行動に対しても、それが反社会的であるとして規制することができない、というのが近代経済学、とくに新古典派理論の立場である。
そのような社会的倫理は、個々の個人的な価値観を集計して求めることは民主主義的な社会では不可能であって、結局「もうかることは良いことだ」という市場経済的な論理に貫かざるをえない、というのが新古典派経済学の考え方だからである。」(同書p6)

宇沢先生はこうした新古典派経済学の考えのもとに行われた高度経済成長の「好ましくない点」が、とくに自動車社会の伸長によってもたらされたと指摘されています。
「経済成長が国民所得の上昇とほぼ同義語とされ、それはただちに国民の経済生活水準の上昇、実質的満足感の増大につながるということが自明の理のように考えられていた。所得が高くなって、自動車を購入し、よりよい家に住むということが、はたして本当に人間にとって満足感の充足を意味するのであろうか」
「自動車を利用することは日本の社会ではさらに大きな社会的問題を惹き起こさざるをえない。それは道路環境の未整備のため歩行者に生命の危険を及ぼし、人々の生活環境を破壊せざるをえない状態にあるからである。
このような社会的費用を惹き起こしながら、好むと好まざるとにかかわらず自らの便益を追ってゆかざるをえないという場合が一般的になっているいのがわが国の現状であるが、ここには心情のやさしさや思いやりがまったく感ぜられない殺伐とした非人間的な社会しか存在しなくなってしまったのだろうか。」(同書p9)

続く

 


 

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