僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

(3/20)お墓参りで思い出したこと

2017年03月20日 22時14分45秒 | 日常、仕事、認知症
早朝と昼の寒暖の差が大きくなってきた。
が、明日は朝は気温がいつもより高いがその後はそれほど上がらないようだ。
連休は天気が良かった。
昨日は休みで今日は仕事だった。
仕事から帰って
夕刻の食事の準備のために夫に起こしてね、と頼んだが
起こしてくれたのに、起きなかった私だ。
ちょっと疲れていた。
その分、夜は少し起きていられそうか。
仕事モードの日は義母と諍いがないようにしていたが
そうもいかなかった。


昨日はお墓参り。
義母には数日前から毎日、予告しておいた。
毎日言わないと忘れるから。
その2日前には
義母の髪を洗い、カットしてやった。
お墓参りに行くのに、その「鬼婆」みたいな頭では恥ずかしいであろう、と。
スッキリして行こう、と。
機嫌が良かった。

当日のために、お供えのお花やお菓子、お茶、ジュース類、線香、バケツなど一式を用意しておいた。
いつ、「行かない!」となるかもしれないので、私達夫婦だけでも行ける用意はしておく。
義母にとって
正月の私の実家に行って以来の外出なので
墓参りの後は買い物で刺激されたら、と思っていた。

当日の朝から、事あるごとに
「出発は9時ね。」と
3回言った。
そして
9時、着替えも何も準備していなかった。
やはり忘れていた。
「9時だよ、準備して。」と言うと
上着を着ても、何かを探している。
何を探しているのかわからない、「何を探しているの?」と聞くと
あっさり
「じゃ、行かない!」となった。
もう、彼女の頭の中は
自分の夫の墓参りは面倒の対象になっていた。
いろいろ準備しなければならないから、とこれまで自分でお茶の準備などしたりしたが
おそらくそれもできなくなったであろうとこちらで準備したが
しておいてよかった。
強引に連れていくことはしなかった。
喧嘩になるのはいやだった。
逆に義母はホッとしていただろう。

そして
夫と共にお墓に。
2か所。
最初は、義母の本家の墓。
義母には兄弟がたくさんいるが、もう見捨てられた墓だ。
その墓をいつもお参りしているのが
私達3人だった。
そしてとうとう、私達2人だけになった。
私は義母の本家の人たちとは全く顔を合わせていない。
合わせていたのだろうが、覚えていない。
義母の姉妹とはよくうちに遊びに来て話をしていたが
その妹も数年前に亡くなった。
もう一人の妹も今は県外で娘(夫の従妹、唯一仲良く話していた人だ)の所にいるらしい。
しかし、義母とその妹とは仲違いをして、おそらくは死ぬまでその関係であろう。
あれだけ、仲良し美人三姉妹だったのに(私も彼女たちには好感を持っており、今でももし会えば、ニコニコとして挨拶できるであろう)
義母の頑固な性格がまるで信念のように、頑ななのである。
兄弟のいない私達夫婦。
兄弟の仲違いというものを知らない私達。
あんなにたくさん兄弟がありながら、孫もたくさんありながら
もう、誰も訪れなくなった義母本家の墓。
お花、もっと豪華なものを持ってくればよかった、とちょっと後悔。
次回の墓参りはもっと派手な華やかな花を、と思った。

そして
夫の父の墓へ。
ちょうど今年は亡くなって20年目である。
先日亡くなった渡瀬恒彦さんと同じ年齢で亡くなった。
若い年齢である。
どうしても夫の父親であるから、あの時は老けて見えたけれど
年齢を聞けばまだまだ現役バリバリの年である。
声のでかい義父だった。
仕事人間だった。
職人気質の頑固親父の典型だった。
器用な人だったので家のあれこれは彼がやった。
だから、彼女義母は何もしなかった。考えなくてよかった。
それが今の姿に反映されている。
近所の人たちから義父は作り物や修理をよく頼まれ、感謝されていた。
近所の小さい子供たちがよく遊びに来ていた。
それを受け入れる義父、義母だった。

ただ一つ、義父の諦めた事があった。
私道の権利問題である。
器用で、何でもやり遂げなければならない性格の義父があれこれやってみたが
どうしてもたどり着けなかった私道の件。
それを知ったのは義父が死んでから10年近くのこと。
戦後の問題が残っていたことに衝撃だった私だ。
そこから一念発起、私は動いた。
義父の残した資料やら法務局やら文系の私の苦手とする分野に
不動産の方と司法書士と3人で何カ月もかけてやった。
その間
夫や義母は何をやっていたか、彼らに期待することは何もなかった。
ただ、彼らのハンコをもらうのみ。
私がどんなに動いても、私の名はない、
彼らの権利である。
義父がたどり着けなかったそれらを漸く成し遂げたときのあの気持ち。
この問題は、戦前の私道の持ち主から始まる。
そして勿論、それらの人はこの世にもういない。
年数が長引けば長引くほど、厄介になる。
それでなくても、時は平成、本当に驚いた、知った時。

その子孫に辿り着くまで時間がかかったし、子孫にとって私道の権利があったとは、と寝耳に水であった。
そこを更に説明説得することの難儀さ。
中には、都会の私道なので、金額を吹っ掛けてくる人もいるかもしれない。
そんな不安があったが、接した方々は皆良い方たちだった。
すべてが解決したとき、
御礼の言葉を述べに、
夫に
「あなたとお義母さんが本来は行くべきでしょ。」と私は言った。
しかし、当然義母は行かなかった、面倒は嫌いな人だから。
夫と私とで挨拶をしに。
かかった費用、司法書士などへの謝礼金は私達夫婦から払った。
あの時
まだ私は義母への請求もできない人間だった。
考えてみれば、義父の残した別な土地の相続金も入っていたころだから
義母にもお金はあったのだが
夫は
「おふくろは金がないだろ。」と言っていたので、私は請求するのもためらっていた。
いやいや、彼女はそのお金、贅沢な服、贅沢な食品に自由に使える身を謳歌していたころだった。
あの気の弱い自分を後悔する。
お墓の費用も義母と夫の名で建てたにも拘らず(費用は折半)、
義母は自分で建てた、と思っている。
自分好みのお墓にした、と自慢している。
そしていつの間にか夫も、こちらでお金を出したことを忘れている。
「お墓って、おふくろが建てたんだっけか。」
「何、言っているのよ。ちゃんとこちらでも払ったでしょ。お墓にもあなたとお義母さんの連名で建立したとなっているでしょ。」
お墓の連名を見るたびにあの会話を思い出す。


お義父さん、こんなことを思い出しましたよ。
私道の件、我ながらあっぱれ、と思っていますよ。
あの、お義父さんの解決できなかったことが果たして自分にできるだろうか、と不安でしょうがなかった出発点。
もし、私達離婚したら、私、疲れ損ですよ。
今年のお盆の時にまたお義母さんを連れていきますからね。


夕食のあと
義母はいつも自分の食べたあとの食器を洗い、戸棚に仕舞うことになっている。
たまに、1つ2つ洗い忘れたり、仕舞い忘れたりするがそれは飲みこむことにしている。
しかし今日初めて
食べたあとにそのまま食器をテーブルに載せたまま、部屋に引っ込んだ。
どういう意味かわからなかった。
部屋に行って
「食器は洗ってね。」と言った。
が、義母の顔は険しく、「息子に頼んだ。」とあからさまな嘘を言う。
「とにかく洗ってください。」と言ったら
「自分は何もしないくせに!」と私の作った料理を食べたあとのこのセリフ。
切れた私はそのセリフは私が言いたいくらいだ、言った、と思う。
夫が「いいからそのままにしておけ。」と言った。
というわけで、義母の茶碗類はそのままです。

「情けない。こんな親だと思った?あの人のプライド、ってあるでしょ。
自分のできることは、お米研ぎと自分の食べた食器洗いだと他の人たちに自慢できるようになっているでしょ。
それは昔からの習慣で、本能に近いものでしょ。できなくなったのではなくて、やらない、やる人がいるからやらない、
なんて情けないでしょ。」と誰に言い聞かせるわけじゃなく、家事をしながら口にでる私だ。
夫は傍でご飯を食べていたけれど、夫に言い聞かせているつもりでもあるし、独り言でもある。
義父に対する畏敬の念を持つ気持ちはあったが、義母には何一つ、尊敬の気持ちが持てないでいる私である。









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