萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第32話 高峰act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-01-21 23:59:18 | 陽はまた昇るside story
純白の峻厳、そのとき、



第32話 高峰act.6―side story「陽はまた昇る」

「そうだよ宮田?また『初体験』だね、こんなに俺に捧げちゃってさ。俺、嫉妬されちゃうかな?」
「どうかな。周太って純粋すぎてね、気づかなくってスルーすること結構多いから」
「ふうん?嫉妬する顔も見てみたいな、俺。湯原くん可愛いからさ、怒った顔とかイイだろな、ねえ?」

低い声で話しながらウェストハーネスを装着し、雪崩ビーコンとスコップ・ゾンデも取出しやすく納めなおす。
セルフレスキュー3点セット「雪崩ビーコン・スコップ・ゾンデ」は雪山の行動者は必ず個人装備に加えなければならない。
雪崩ビーコンは小型の電波発信兼受信機で、雪崩に巻き込まれた人の埋没地点の特定に威力を発揮する。
ゾンデは雪面に突き刺しながら埋没者を検索する長い棒状の物、スコップは埋没者を掘り出す時に必要となる。
装備を整えながらも主人が受けている電話の内容が聞こえてくる、国村がやれやれという顔で唇の端をあげた。

「あーあ、7合目より上のとこっぽいよな?ヤバいなあ、拙いよ。宮田、覚悟ってできてる?」

言っている内容は深刻なくせに国村の口調はいつも通り明るい。
そんな友人で山岳救助隊の同僚に英二は可笑しくて笑ってしまった。

「覚悟はね、国村?青梅署に卒配希望を出した時にさ、とっくに出来ているよ」
「さすが真面目だね、宮田はさ?お、電話そろそろ終わりそうだね」

そうして見ていた視線の先で、山小屋の主人がため息まじりに電話を切った。
切るとすぐ、こちらに気がついて声を掛けてくれる。

「ああ、済まないね、気づかなくて。今から下山かな?」
「おやじさん、起きたんだろ?場所と状況は?」

手短に国村が訊くと主人の目がすこし大きくなる。
そしてすこし困ったように笑って、話してくれた。

「うん、済まないね?気を遣わせて…この吉田口のな、7合目付近で捻挫したらしい。
それで救助要請なんだ。この雪でな、吉田署の動きが遅れそうだ。だから俺がね、今から出るつもりだよ」

山で遭難事故が起きた時。その救助の為に山ヤはお互いに援けあうことが暗黙のルールになっている。
その現場の位置によって最寄りの山小屋にも救助要請の連絡が入る、それに応じて山小屋からも救助の人手を出す。
そして厳冬期の富士山では、この山小屋だけしか営業していない。すべてこの山小屋の主人に掛かってしまう。
そんな主人の話に国村は、いつもの調子で飄々と言った。

「おやじさん、じゃあ俺たち、ちょっと行ってきます。宮田、おまえ救命道具、持ってきてるんだろ?」
「ああ、いつも持ってるよ?捻挫なら処置も時間かからない、大丈夫だ」

裂傷を伴うと消毒など時間もかかる、けれど捻挫なら固定だけ済ませれば下山に向かえるだろう。
きっと時間との闘いになる救助だろうな、そう考えながら英二は微笑んだ。
そんな英二に山小屋の主人がすこし驚いたように聴いた。

「君、救命救急が得意なのかい?」
「まだ得意と言えるか、解りません。ただ吉村先生にはたくさん教わっています」

きれいに微笑んで英二は答えた、そんな英二を主人はじっと見つめている。
きっと吉村の亡くなった次男で、医学生だった雅樹を思い出しているのだろう。
雅樹は医大で学びながら救命救急士の資格を取得して、山での遭難事故に立ち会えば進んで救助を請け負っていた。
その彼と似ている英二が同じように救命救急を得意とすること、それが主人には何か感慨があるのだろう。
そんな主人と英二を見やりながら国村はからり笑って、いつも通り明るく声を掛けた。

「よし。じゃあ出るよ?おやじさん、そういうわけで俺たち行きますね。で、後で熱いもん、何か食わしてくださいね?」

すこし心配げな眼差しで主人が英二を見てくれる。
けれど英二は微笑んで目だけで「だいじょうぶですよ?」と笑いかけながら、片膝ついてザックを背負うと立ちあがった。
そんな英二の様子を見て主人は小さくため息を吐いて、そして頷いてくれた。

「わかった、すまないな、お願いするよ。場所は7合目の花小屋のあたりだ。
 あそこの岩場でアイゼンをひっかけて転んだらしいんだ。滑落しなくて幸運だったよ。
 けれど今、きっと吹雪であの辺りは視界も悪い、気をつけて行ってくれ。俺も準備したらね、すぐに追いかけるよ」

「はい、お願いします。さて、宮田?これの時間だな、」

悪戯っ子に笑って国村はザックからザイルを出した。
そして楽しげにザイルを捌いていく国村に微笑んで英二は頷いた。

「ちゃんとアンザイレンするのはさ、俺、ほんと初だな」
「だな。俺もね、アンザイレンは久しぶりだよ。さて手早くやるよ?きっと遭難者はお待ちかねだ、」

国村と英二はウェストハーネスにザイルの端を手早く繋いでいく。
そして互いの体をザイルで繋ぎアンザイレンをすると、互いにザイルの長さを調整していく。
そうして装備を整えると小屋から7合目に向けて登り始めた。

予測通りに降雪は細かな雪で視界が悪い。
見上げた富士は山頂を真白なベールの向こうへと姿を隠す。
ザイル調整して歩きながら、登山用サングラスの奥で目を細めて国村が軽く微笑んだ。

「さあ、宮田?ちょっとキツイ雪山でのレスキュー訓練になったな?」
「そうだな、国村。でも、俺たちは山ヤで山岳救助隊だ。こんな悪天候の時こそ遭難は起きる、仕方ないよ」

山ヤは職人気質のクライマーを言う。
そんな山ヤは誇りを懸けて自助と相互救助のルールに立って山に登る、そんな大らかな意志が誇らかな自由になっている。
そして山岳救助隊は山岳レスキューの警察官として責任と義務と誇りに立って、いかなる時も唯レスキューに徹する。
その両方に立つ自分たちが、いくら悪天候でも遭難救助に向かうのは当然の選択だった。
そんな『当然』に国村はいつも通り明るく笑って英二に訊いた。

「だね。さて、宮田?富士山の気象のおさらいだよ。今は低気圧がここを支配している、この吉田口での風向きはどうなる?」

こんな質問で国村は現況の確認を英二に促して、向かう現場への心構えを示してくれる。
すこしだけ考えてすぐ英二は笑って答えた。

「いまは南西風だから右からの風。
 風速は比較的穏やかだ、けれど突風に注意。そして気象予想と現在の状況から、太平洋側からの低気圧が通過中」

「そうだ、突風が怖い。そして今はさ、表層雪崩の危険が高い状態だよな?」

この天候変化を国村と英二は事前の気象予想から予測していた。
その予測から登頂を昨日へと前倒しした、そして今日は表層雪崩の発生前に下山する予定でいた。
けれど予定は遭難救助で覆った。そっと英二は微笑んで国村に答えた。

「うん。昨夜から降っているからさ、やっぱり結構積もっているな。
 ここ5合目で40cm位だ、上はもっとだろ?上からの重みだけでもさ、いつ新雪が滑リ落ちても不思議じゃない」

表層雪崩は新雪雪崩ともいい、気温が低いと発生する。
古い積雪の上に短時間で降積もった時、後から積もった新雪が滑り落ちて雪崩となっていく。
一晩に30cm以上の降雪があったら要注意、上部に傾斜が急で広い斜面があるときは10cmの積雪でも注意が必要になる。
具体的にはスキーで登れない程度の斜面、約25度以上に10~15cm以上の新雪が積もったときは発生しやすい。
この富士山は傾斜が急な広い斜面、そして昨夜から短時間での積雪が見られ、気温はマイナス15℃の低温だった。

「そうだよ、宮田。それだけでもさ、ちょっと怖いよな?で、ここ富士山の場合って話になるよ?」

着実なアイゼンワークでリズミカルに登りながら、英二の答えに国村が頷いてくれる。
その横顔はサングラスを透かして真剣な空気が伝わる、その横で英二にも緊張が静かな沈着が肚におちていく。
ざくざくとアイゼンに雪を踏みしめ、高度を稼ぎながら国村が説明を始めた。

「富士山の雪崩は際立った特徴がある。まず山体の北から南までの東側に多いんだ。
 表層雪崩は頂上付近の沢状地形に多い、高度は6合目以上、発生時期は積雪初期にピークがある。
 気象条件としてはさ、低気圧の中心が富士山の南を通過した直後が、発生のピークになるんだ。で、ここで冷静になれよ?」

もう国村が言いたいことは解っている。
ときおり吹き付ける風雪は右から頬を撫で、低い雲がすぐ横をすり抜けていく。
空気も白い雪山を登りながら、登山用サングラスの奥で切長い目を微笑ませて、英二は穏やかに答えた。

「うん、冷静になったよ。国村、こういうことだろ?
 この吉田口は北東にあたる、そして目指すのは7合目、今は1月中旬で積雪初期。
 で、昨夜作った今日の気象予想だとさ、まさに低気圧の中心が富士山の南を通過するのって、今頃だな」

富士山で起きる表層雪崩の特徴。
多発地帯の富士山の北から南の東側、そこに今この登る吉田口登山道は入っている。
多発地形の沢状地形、それは吉田口登山道に近接する西側の「吉田大沢」として広がっている。
多発高度は6合目以上、今から向かう現場は「7合目の花小屋付近」そこは急な岩場のポイントでもある。
多発時期のピークは積雪初期、この今は1月中旬の厳冬期積雪が始まったばかり。
そして、表層雪崩の多発気象条件は『低気圧の中心が富士山の南を通過した直後が、発生ピーク』
いま現在9時から10時の気象状況は『低気圧の中心が富士山の南を通過中、風速次第で通過も速まる』
そんなふうに気象予想と現況から推測できる。英二は言葉を続けた。

「もう、じきに低気圧は通過していくだろうな?
そして低気圧の中心が通過した直後が、表層雪崩の発生ピークだ。そのピークに俺たちは今から入る。だろ?」

アイゼンワークに気を配りながら英二は横をいくパートナーを見て微笑んだ。
その視線を受けた底抜けに明るい目がサングラスの向こうから笑って、いつもの飄々とした口調で返事をくれた。

「そうだ。今から俺たちが行く場所はね、まさに表層雪崩の危険地帯だ。
そしてこの低気圧通過のタイミングだ、ほんとにさ、今まさに雪崩発生のカウントダウン中ってとこだ」

表層雪崩の起きやすい場所と時期、そして誘発の気象条件。
いま国村と英二は遭難救助の為に、表層雪崩発生の条件が全て揃った場所と時間へと向かっている。

雪崩に巻き込まれ埋まった場合の危険はもちろん、雪崩で発生する爆風による危険も高い。
雪崩に埋まった被災者の55~65%は死亡、雪に埋まらなかった被災者も生存率は80%と言われる。
適切な訓練と装備を備えていても、小規模でも雪崩に遭えば生命が深刻な危険にさらされる事に変わりはない。
そうした雪崩の死者の9割は、いま発生が危惧される表層雪崩が原因となっている。

この遭難救助は二次遭難の危険性が高い ― それが今ふたりの共通意識だった。
そんな暗黙の共通意識のなかで、ネックゲイターで覆う口から国村が英二に確認をしていく。

「さて、宮田?もし雪崩に気づいたら大声で知らせろ、同時にすぐピッケルを刺せ。爆風で吹っ飛ばされるのを防ぐんだ」

雪崩は巨大な雪煙を伴い高速で長距離を走る、前面の速度は毎秒20~80mで爆風を伴う。
その衝撃圧力は135t/m2にも達した例があり、鉄筋コンクリートの建物を破壊する衝撃力になる。
この爆風に飛ばされれば滑落、そして富士山は遮るものが無い広い斜面に滑落は止まれない。
そんな滑落の先は、滑落の衝撃と冷たい雪に抱きとめられる死が待ち受けている。
だから国村は昨日と今朝、真剣に滑落停止技術を英二に叩きこんだ。
ちょっと微笑んで英二は頷きながら国村に答えた。

「ああ。昨日も教えてくれたね、滑落しないようにする」
「そうだ、爆風で飛ばされるなよ、絶対に滑落するな」

この富士の大斜面で、雪崩の爆風に飛ばされた滑落ではまず止まれず、助からない。
いつもの明るい口調のままで、けれどサングラスの底から真剣な眼差しに英二を見つめている。
そして、と国村は注意点を英二に続けた。

「そして万が一、雪崩自体に巻き込まれたら。
雪崩の表層部へなるべく浮上するんだ、雪崩停止前にはエアポケットを作れ。
埋まりきったら全く身動きでなくなる、そうしたら冷たい雪に囲まれたまま、ただ救助を待つしかない」

ふっと黙り込んで国村は空へと一度頭をふった。
その横顔は雪空にとけそうに白い、そんな様子に想いが見えて英二は心が軋んだ。
10年前の春、高峰マナスルの雪にのまれて国村の両親は死んだ。
その記憶がいま雪崩発生地帯へ歩いていく現実と重なって、国村の心を痛ませている。
そんな友人の想いを受け留めてやりたい、白くなる視界のなかで英二は微笑んだ。

「なあ、国村?俺たちはね、大切なひとが待っている者同士だ。
 そんな俺たちはさ、絶対に無事に帰ろう、って意思がほんとに強いだろ?
だから絶対に俺たちは無事に帰る、そして遭難者も無事に家に帰してやろう?それが俺のレスキューの誇りだよ」

横を歩く白い顔が英二を見つめてくる、そのサングラスの底にある目は雪曇りに見えない。
けれど今まさにアンザイレンしている自分のパートナーの想いが英二には解る。
きれいに笑って英二は自分のパートナーに頷いた。

「国村。俺はね、おまえのアンザイレンパートナーだ。そしておまえの専属レスキューだよ、だから約束する。
俺は絶対におまえを無事に帰らせる。俺は今はまだ経験も浅い、でも今も絶対におまえを無事に連れて帰るよ?俺も絶対に無事に帰る。
帰るのは周太との『絶対の約束』なんだ、それに俺はおまえとも約束してるだろ?無事に帰って絶対に国村と最高峰に登りに行くよ」

言って英二はきれいに笑って、ポンと国村の肩を叩いた。
絶対に大丈夫だよ?そんな想いと笑いかけるとネックゲイターの影で国村の口元が綻んだ。
きれいに笑って英二の肩を叩き返すと、いつもの楽しげな口調で話し始めた。

「おう、絶対に無事にこの救助も成功させるね。パートナー組んでから俺たち、一度だって失敗なんかしていない。
この先だって絶対にしないね、山ヤは誇り高いんだ、ミスなんか許せない。だから宮田?山ヤの俺たちは今日もノーミスでいくよ?」

いつも通りの明るいトーンと、底抜けに明るい自信と誇らかな自由がまぶしい。
よかったと思いながら英二は国村に笑いかけた。

「この救助はスピード勝負だよな?雪崩発生の前に救助を完了させれたらベストだ、応急処置は5分以内に終わらせるよ」
「頼りにしてるよ、宮田。でも、さあ?」

いつもの語尾「あ」が出たな?
ちょっと可笑しくて英二は笑った、こんな語尾変化は国村が機嫌を損ねたシグナルだ。
きっと今の状況はやっぱりご不満なのだろう。そう思ってみていると国村が言った。

「ほら見ろよ、上空の雲のスピードが速い。それに下の雲も速いんだよなあ、ちょっとヤバいよな?」
「うん、風のスピードがあるな?低気圧の通過が速くなるってこと、だろ?」

穏やかなに英二は微笑んで国村に応じる。
そんな英二の横で国村は「ご不満」を隠さない口調で本音を言った。

「そ、宮田が言う通りだ。まったくさあ…ほんとにさあ?なんなんだよ今回の遭難者のヤツ!」

生粋の山ヤである国村は山岳レスキューにも真直ぐに取り組んでいる。
だからこそ『山』を正しく知る努力をしない結果の遭難には手厳しい態度で臨んでしまう。
そんな国村は今回のケースは当然に怒るだろう、そんな予測を英二はとっくにしている。
そろそろ始まるかな?そう英二が見ている先で国村は口を開いた。

「なんだってコンナさあ、雪崩が起きますよってタイミングにね、6合目より上に登っちゃうんだよ、なあ?
天候の予想もしないで登ったに決まってるね、雪崩発生の勉強していないよな?山の特徴つかんで登らなきゃ自殺行為だよ?
ヤッパリ山のこと舐めきってるヤツかなあ、ねえ?ちょっとさあ、厳しい事情聴取が必要になっちゃいそうだよ、なあ?」

真白な空から降り続く雪のなか、国村は飄々とした口調で怒りをぶちまけた。
これで少し治まってくれるかな?あわい期待を思いながら英二は微笑んだ。

「そうだね、国村。でもさ、ここは東京都じゃない、管轄外だ。
私服のウェアだし警察手帳だって携帯していないだろ?俺たち今は警察官やっていない、いつもの救助とは違うよ」

かるく念押しをすると、ちらっと英二を見た細い目が可笑しそうに笑っている。
そしてネックゲイターの影で唇の端が上がるのが見えた。

「そうだね、宮田?俺は今タダの山ヤだね、任務も警察官の肩書も無関係だねえ?ならさあ、存分にお灸据えれちゃうよなあ、ねえ?」

きっと底抜けに明るい目は「自由なら容赦なしだね?」とサングラスの底で笑っている。
どうも国村にとってブレーキだった「警察官」というストッパーを外すことになったらしい。
却って余計なことを言ったかもしれない?英二はネックゲイターの影で後悔の溜息を吐いた。

「でもさ、国村?後藤副隊長の友達って方が山梨県警にはいらっしゃるよな、あんまり迷惑かけるなよ?」
「なに言ってんのさ?後藤のおじさんとの関係なんかね、言わなきゃいいだけだろ?」

しれっと共犯に英二を巻き込んで、テノールの声が笑っている。
ネックゲイターのなか唇の端を上げて、国村は可笑しそうに宣言した。

「今は俺、タダの山ヤだもんね。好きにさせてもらうよ?ま、フォロー必要な時は頼んだよ、よろしくな?」

からり笑っている国村は誇らかな自由と気儘さが楽しげでいる。
どうやら「国村の一言」という二次災害の発生は、どうしても避けられないようだ。
困ったことにならないといいな?そんな想いに英二は空を見上げた、その視界が白い。
視線の先は雪煙と降雪に白く染めあげられ太陽すら淡い、ふっと英二は気懸りを口にした。

「太陽の影が薄い、…雲と稜線がすこし融け始めているな」
「うん、ホワイトアウト起こしかけてるな?どっちにしてもさ、けっこう危機的状況だよね?ま、これも山の醍醐味かな」

深刻なことを口にしながらも楽しげに国村が笑っている。
こんな時も「山」なら楽しいのだろう、なんだか微笑ましくなって英二は笑った。

「醍醐味もいいけどさ、俺、絶対に周太の隣に帰るからな?おまえと一緒に遭難とか俺、嫌だよ?」
「おや、宮田?俺たちって相思相愛のアンザイレンパートナーだろ、そんな嫌うなって」
「おまえは好きだよ、面白いしさ。でも嫌だよ、俺は周太の隣がいいよ。…あ、国村?あれって7合目の鳥居だよな」

白くふる雪の向こうに赤色が見える、7合目の階段に立つ鳥居が雪に半身を白くしていた。
クライマーウォッチの針は9時半を示している、太陽は白い大気に溶けこみかけていた。
昨夜からの降雪に埋もれかける山小屋のならぶエリアへと踏み込むと雪深い。

「宮田、調子はどうだ?」
「うん、大丈夫だよ、国村。もう高度にも馴れたみたいだ、」
「そりゃ良かったよ、今日は低気圧の中だ、エベレストと変わらないって言う冬富士の悪天候だ。いい練習だな」

降雪がときおり横殴りに右から打ちつけてくる、右からの強風の強まりが大気の移動をしめしていく。
低気圧の通過が近づくのだろうか?ネックゲイターの影でこぼれる呼気と冷たい外気の温度差を感じる。
見あげる太陽が白い空の彼方に朧になっていく、曇天と雪に遮蔽された地表では気温低下がすすんでいた。
ラッセルしながら進んで夏道にはいり、花小屋に辿り着くと黄色が目に映りこんだ。
登山グローブの長い指で黄色を指し示しながら英二は並んだパートナーに訊いた。

「あれ、ツェルトだよな?」
「そうだ、たぶん救助者はあそこにいるね?さ、行くよ?スピードあげてラッセルするからね」

そう言って国村はからり笑うとラッセルを手際よく進めて、花小屋の黄色いツェルトの前に立った。
降雪にツェルトは埋もれかけている、国村が声を掛けると中から学生風の男が現れた。
それなりの装備はしている様子に英二はすこし安心をした、全くの不備でなければ国村の怒りも軽減されるだろう。
けれど男に対して国村は遠慮なく口をきいてみせた。

「救助要請出したのってさ、あんたかい?」
「あ、はい…そうです、あのう、警察の方ですか?」
「そうとも言えるし違うとも言えるね。まあ、どっちみちさあ?あんたに名乗る必要はないね。ほら、さっさと怪我を見せな?」

ぞんざいな国村の言い回しと態度に気圧されたような男が怯んでいる。
困ったことになりそうだな?ちょっと英二は微笑んで国村の横に片膝ついた。
この山を通過中の低気圧と自分の横にいる低気圧、どちらが怖いだろう。
そんな想いのままで英二は男に笑いかけた。

「こんにちは、五合目の佐藤小屋さんで事情を簡単に伺いました。捻挫されたそうですね?見せて頂けますか?」

いつもの山岳救助隊員の顔になって英二が声を掛けると、すこし男の顔がほっとした。
話しかけながら英二は救命救急用具セットを出して感染防止グローブをはめていく。
そんな英二の様子に安心したように、彼は右足首を示して素直に謝ってくれた。

「申し訳ありません、こんな雪の中を…自力で降りようとしたのですが、どうしても右足首が立たないんです」
「解りました、右足首ですね。では、まず脈を見せて頂けますか。寒さや吐き気は?」
「大丈夫です、」

話しながら英二は男の手を取ると、右側から手を握り軽く手首を反らせる。
左手で親指側の手首に沿って示指と中指、薬指の3指を当てクライマーウォッチを見た。
15秒計って脈拍数を計測すると英二は国村を振り返った。

「国村、メモ頼める?」
「はーい、もう手帳出してるよ。で、何回?」

めんどうはさっさと済ませよう、そんな態度に英二は少し笑ってしまった。
それでも国村は脈拍数をメモし、4倍して1分間あたりの回数として記録していく。
こうした計測データは医療機関へ引き継ぐ際に報告する。そんな普段の救助隊での対応を英二は手早く進めた。
計測しながら握った手が少し汗ばんで脈も少し早い、きっと転倒時の緊張が残っているのだろう。
冬の富士での転倒は滑落となって死に繋がる。ほんとうに滑落しなくてよかった、英二は彼に微笑みかけた。

「はい、大丈夫ですね。では指先を失礼します」

循環の初期評価リフィリングテストを行う。示指の爪先端を5秒間つまみ、ぱっと放す。爪床は3秒でピンク色に戻った。
毛細血管再充満時間を測る方法で、組織還流が影響を受けていると2秒以上かかる。
原因は脱水、ショック、外傷、低体温症など。彼の場合はショックと右足首の負傷が原因だろう。
頭、首、胸、腹部、腰、手、足の順で迅速に観察し続けながら、救命救急用具を手早く広げていく。
その横ではデータをメモし終えた国村が勝手に事情聴取を始めた。

「で、あんたさ、どうやって転んじゃったわけ?」
「はい、アイゼンが引っ掛かる感じで…バランスを崩しました」
「ふうん?斜面は滑らなかったんだ?」
「ええ、滑り出す前に、滑落停止の姿勢をとれました…それで、助かって」

意識は明確で頭部損傷も無い、事情聴取にも明瞭な回答をしている。首や手足のしびれも無い。
ただ本人も言うように右足首が腫れている、登山靴を履かせたままの状態で英二は患部を確認した。
運よく骨折はしていない、捻挫か脱臼または靭帯損傷だろう。英二はクライマーウォッチを見た。
時刻は9:33、ここ7合目について3分経過している。天候の変化が危うい、すこしでも早く五合目に退避したい。
いつもはテーピングを施してから登山靴ごと固定をする、けれど時間が無い。
そのまま登山靴の上から固定することにし、英二は三角巾を取出した。

本来ならサムスプリントをつかう固定のほうが足首を安定させられる。
けれどサムスプリントは靴底で踏んで固定する為にアイゼンが履き難くなってしまう。
英二は三角巾を手早く横に八つ折りすると、登山靴を履いたままの上からアキレス腱の裏側で交差させる。
さらに甲へまわして交差させて端を両サイドに内側から通すと、そっと足首を前屈させながら締め上げて固定した。
処置が終わった所で感染防止グローブを外して廃棄袋へ納め、手早く救命救急用具を片づけてザックにしまった。

「国村、お待たせ。終わったよ、」
「よし。じゃあ行こうか。で、あんた歩けそう?」

肩を貸して男を立たせると立ちあがれる、体の傾きも少ないようだった。
彼は自力で立つとツェルトを手早くしまい始めた。

「はい、なんとか歩けそうです」

そう言いながらも雪道を歩き始めると右側へと体が傾いてしまう。
さっきの腫れだと靭帯損傷の可能性がある、それは腱の断裂した状態になり安定を欠く。
自力での下山は危険だろう、思いながら英二は左腕のクライマーウォッチを見た。
針は9:35を差している、きっと時間があまりない。英二は国村に笑いかけた。

「国村、俺が彼を背負って下山するよ。2人だと橇は無理だし、雪崩の危険があるから」
「うん?…やっぱり彼、ちょっと難しいよな?体傾いてるもんな…でもさ、宮田は大丈夫か?」

ちょっと心配そうに細い目が英二の顔を覗きこむ、大雪渓での初めての搬送に国村は心配をしてくれている。
そんな気遣いに感謝しながら英二はきれいに笑った。

「大丈夫だよ、国村。奥多摩で俺、雪の中で背負って下山してるだろ?国村、ザイル確保してくれる?」

大丈夫だよ?目で言いながら英二は笑うと片膝をついてザックをいったんおろした。
そんな英二を見ながら国村が仕方ないなというふうに頷いた。

「うん、解ったよ。おい、あんた。レインウェアの上だけ出しな?」

遭難者にレインウェアを出させると国村は受け取って英二に渡してくれた。
受けとって英二は、ザックのストラップの細い部分にレインウェアの袖口を一重結びで縛り付けていく。
結び終わるとゴルフボール大の石を拾ってから、彼をザックとレインウェアで挟み込んだ。
そしてレインウェア腰部分の左右の裾に石を包み、細引きの紐でインクノットに固定した。
ザックのストラップへ肩を通しながら英二は彼に微笑んだ。

「はい、じゃあ背負いますね?国村、サポートお願い」
「よし、いくよ?」

ザックごと彼を背負いあげると英二は立ち上がった。
英二は細身でも筋力があり、握力・背筋力とも平均値よりだいぶ高い。
登山経験の不足を体力強化から補いたくて、警察学校時代にトレーニングを周太から教わっている。
そこに山岳救助隊での訓練を積んだ3ヶ月半で「パワー系」と青梅署では言われるようになった。
そして彼は思ったより重くない、装備ごと背負っているけれど大丈夫だろう。英二は国村に笑いかけた。

「大丈夫だよ、国村。行こう、ザイル確保、頼むな」
「おう、じゃあザイル通すよ?」

ザックのストラップからザイルを通してウエストハーネスごと確保していく。
そして国村が上方から英二をザイル確保しながら、5合目へ向けて下山し始めた。
歩きだした斜面が下方へ向かって傾斜の急さが目に見える、視界の白さが粉雪の節煙に濃い。
慎重なアイゼンワークでテンポ良く下っていく背後から国村が話しかけてくれる。

「5合目、ちょっと見えないね…うん?あの緑色がさ、おやじさんかな」
「そうだな。上がってきてくれてるんだな、6合5勺あたりで合流できそうだな?…寒くないですか?」

国村に返事しながら英二は背負う男に話しかけた。
遭難者の救助には声掛けも大切になる、こんなふうに話しかけて安心を与えていく。
おだやかな英二の雰囲気に安心したのか、ふっと背中で微笑む気配がすると男が礼を言ってくれる。

「あ、はい。大丈夫です、あの、すみません」
「はい。もし痛いとかありましたら、声かけてくださいね?」

足元に気を配りながら英二が返事すると、背中の空気がまた和んだ。
そんな空気に微笑んで見た空が白い、足元に注意しながら辺りを見回すと稜線と空は境界を失っている。
ホワイトアウトが起きている。かすかな緊張が起き上がる中で国村も言った。

「宮田、ホワイトアウトだ。頂上方向はもう見えない」
「ああ、稜線と空も解らなくなったな。でも国村、下は見えてる。大丈夫だ」

こんな時は視界の不良が怖い、けれど見下ろし進んでいく下方は6合目までなら見えている。
きっと大丈夫だろう、思いながら見たクライマーウォッチが10時前を差していた。
その文字盤にふる雪が減り始めていく、顔をあげると雪の量が減り始めていた。
もう、そろそろだろうか?見上げる雲の動きも真白な空には見えない。

ホワイトアウトが起きている、そのせいで雲の流れが読めない。
けれど雪は少なくなっていくのが解る、たぶん低気圧の支配が終わりを告げ始めている。

表層雪崩の多発気象条件は『低気圧の中心が富士山の南を通過した直後が、発生ピーク』

さっき国村と話していた内容が起き上がる。
もうじきピークの時を迎えるだろうか?そう思った英二の背後から透るテノールが言った。

「宮田、低気圧が過ぎ始めているよな?」
「うん…雪が減ってきたな。ちょっと怖いな…6合目を早く過ぎたいな。ピッチあげるよ?」
「おう、ついていくよ?おまえのペースで下りてくれ、でも絶対に滑落するなよ」

背に負う男の重さに体も馴れてきた、すこしピッチを上げて英二は下っていく。
下りていく斜面の先に緑色のウェアがはっきり見えてくる、6合5勺まであと少しだろう。
クライマーウォッチの時刻が10時になろうとしている。
今日の周太は当番勤務だから今頃は寮の部屋か公園にいるだろう。
逢いたいな。想いに微笑んだ英二に、ふっ、と音が響いた。

― 来る、

そんな感覚と同時に左後方を振向くと、真白な大気が視界を遮って見えない。
それでもとっさに英二は国村に怒鳴った。

「雪崩だ!吉田大沢から来るぞ!」

すぐさま国村も振向いて左後方を確認する、その手はもうピッケルを雪面に刺していく。
英二は下方の緑色のウェアに向かって怒鳴った。

「雪崩だ!おやじさんっ、登るな!吉田大沢だ!ピッケルを刺せ!」

吉田大沢は過去に落石が発生している、そのために現在は登山道から外された。
そんな場所は雪崩が発生してもおかしくない、左上方を見あげた英二の目に真一文字の白い線が映りはじめた。

―来る、

雪崩の波が視界に迫り強風が斜面を下って吹きつけはじめる。
もうじき雪崩が到達する、ピッケルをふりあげ英二はシャフトを雪面に叩きこんだ
ピッケルを両手で握りこみながら姿勢を低くすると英二は背中に怒鳴った。

「ピッケルを雪面に立てろ、風が来るぞ!」

見あげる雪煙の波は雪崩直撃は避けられることが解る、けれど風の勢いが強い。
雪面の粉雪が風に舞い始めた、きっと風圧の衝撃は確実に食らう、それに飛ばされたら死に繋がる。
背負った男も自力で雪面にピッケルを打ち込んだのを確認すると、英二はザイルで繋がる国村を見た。
見あげる先で国村は確保用ザイルを片腕に巻きとっている、そしてピッケルのシャフトを雪面に叩きこんだ。
体勢を整えながら透明な目は振り返り、真直ぐに英二を見ると透る声が怒鳴った。

「宮田っ!絶対に滑落するな!」

そのとき大きく風圧が押しよせて、斜面の新雪が一挙に舞い上がり雪煙が煙幕を張った。
真白になる視界の向こう青いウェア姿が閉じ込められていく、親友が風雪の向こうへ隔てられていく。
消えていくアンザイレンパートナーの姿を見つめる英二の頬を、白い細粒が叩いてウェアのフードが風に脱がされた。
黒い髪が真白な雪煙に舞う、風なぶられる前髪の向こうは白に全てが消えていく。

視界、零

アイゼン履く登山靴の底を沸くように地響きが震え叫びをあげ始める。
もう間近に迫っている、ホワイトアウトの視界の底で轟音が吼えていくのを英二は聴いた。
激しい風圧と叩きつける雪と氷の粒に英二は、ピッケルにしがみついたまま腕に顔を埋め込んだ。
圧縮された空気の塊が押し寄せる、体が弾かれないよう英二は重心を富士の雪へ沈ませた。

氷の割れる音、雪が斜面を飲みこむ音、山が高らかに吼えあげる咆哮の響き。
頬を体を叩きつける重たい空気、刺される冷厳の温度、全身を震わす大いなる鳴動。
雪を「白魔」と呼び、冬の富士を「魔の山」と呼ぶ意味が肚の底から咆哮に叫ばれ、知らされる。

ここは冷厳な掟の支配する雪山、厳然とよこたわる「山のルール」に人の力など小さい。
白い視界と白い音に呑みこまれていく世界の中で英二はただ風圧に耐えた。
自分が飛ばされたら今この背中に背負う男も無事では済まない。

― 俺は、絶対に帰る。この人も帰してみせる、それから、

ピッケルにしがみつきながら英二は自分のウェストに巻いた確保ザイルの感触を感じていた。
このザイルの向こうには国村がいる、いまこの白い風圧の中で国村も耐えて雪へと体を支えているだろう。
底抜けに明るい目と誇らかな自由まぶしい明るい笑顔の、大好きな友人で生涯のアンザイレンパートナー。

がくんっ、急に英二の体を引きずられる衝撃が抜けた。

ウェストに巻かれた確保ザイルが引っ張られる、そしてウェストハーネスのザイルも引き攣れた。
英二はピッケルを深く雪面に腕ごと刺して姿勢を低めて体を固定した。雪崩の衝撃波は大きくなっていく。
ずっ、ずっ、とウエストのザイルがずれ動いていく。二巻したザイルの端の片方が外れかけて英二は掴んだ。
このザイルで繋がれた先で何かが起きている、その起きている事は?

― 国村、

ピッケルを抱え込んだまま英二は顔をあげた。
そして大声で英二は怒鳴った。

「くにむらあっ!ザイルを外すな!ザイルを離すんじゃないっ!俺が支えてやるっ!」

ザイルのずれ動きが止まった。
英二はピッケルを確保したまま、素早く片手でザイルを掴んで自分の腕に巻きこんで固定する。
そしてまた大声で雪煙の向こうへと怒鳴りつけた。

「くにむらあっ!ザイルを掴め!俺を信じろ!
 俺は絶対に飛ばされない、支えきってやる!絶対に一緒に帰るんだっ!くにむらっ、ザイルを離すなあっ!」

ザイルのむこうが掴まれた感触がはいる、がくんと英二の体が引っ張られて重みがかかる。
いつも国村と組んで行うザイル下降で背に負う体重、その重みがザイルのむこうで繋がれている。
いま背に負う遭難者の男、ザイルで繋がる自分のアンザイレンパートナー。
そして自分と。英二は3人分の重みと生命を抱いて、ピッケルを抱え込むよう雪面に腕ごと撃ち込んだ。
雪に押される冷たさが両腕を浸してくる、指先にも氷の硬度と冷気がまとわりつき感覚を消す。

― 周太?俺はね、絶対に帰る

唯ひとつの想いが感覚を蘇らせてくれる。
そう、自分は絶対に帰る、そう約束をしたのだから。愛するひとを守るのだから。
自分は直情的で真面目すぎて、思ったことしか言えない出来ない。そして欲しいものは掴んで離さない。
だから約束だってそう、思った通りに出来ることしか自分は約束なんて出来やしない、そして約束も離さない。
そんな自分は美代にも約束をした、英二はザイルのむこうへ怒鳴った。

「くにむらぁっ!美代さんが待ってる!絶対に帰るんだ!
 俺は約束した!美代さんに約束したんだっ!だからザイルを絶対に離すなっ!俺をうそつきにするなっ!」

繋がるザイルを伝って、むこう端が握りこまれるのが解る。
きっと掴んでくれている、想い祈るように英二は冷たくなっていく掌でピッケルとザイルを握りこんだ。
そうして英二は掌も腕も離さずに風圧に耐えた。

風雪に舞い上がっていた前髪が、英二の額を覆い落着き始める。
ゆっくり上げる目の視界が蘇っていく、治まり始めた雪煙は吉田大沢の崩落の終わりを告げた。
轟音も地響きも消えていく、風も治まり始めて雪氷の嵐も消えていく。
ゆっくりと英二は自分のピッケルを抜いていく、握りこんだ掌を動かすと指先にすぐ感覚が蘇った。
これなら凍傷はしていない、ピッケルを右手にだけ持ち直すと英二は背中へ声を掛けた。

「驚きましたね、大丈夫ですか?」
「…はい、大丈夫です…でも、あの、」

きちんと返事してくれた男に英二は肩越しに微笑んだ。
けれどその微笑みは男の言葉を切るような静かな頷きだった。
そんなふうに無事を確認すると英二は、男を背負ったまま立ちあがった。

濛々と雪煙が鎮まっていく、雪の真白な煙幕の一方向を英二は見つめた。
左掌にはウエストに巻いた確保ザイルを握りこんでいる、そのザイルのむこうには確かに端を握る手応えがある。
雪煙を透かしてザイルの軌跡が足元から見え始めた。
左掌に握るザイルとウェストハーネスに繋がるアンザイレンのザイル、その2本のザイルが雪面を上へ登っている。
そのザイルを巻き取りながら辿って英二は歩き始める、その足取りが早くなっていく。

雪煙に透かす空は太陽の光が戻り始めている。
稜線と空はその境を顕わし始め、真白だった視界は青と白の美しい様相へと変わっていく。
アイゼンふむ雪氷の音も遠く聴きながら英二は、繋いだザイルを左掌に巻き取りながら斜面を小走りに駆けた。
そしてザイルの軌跡の涯が雪煙の中で英二の目に映りこんだ。

ザイルの端は雪の底へ飲みこまれていた。

「…っ、くにむらっ!」

片膝ついてザックから肩を抜き遭難者の男をおろすと、英二はザイルの周りを手で掘りはじめた。
まだ雪は締りきっていない、けれど氷塊が混じっている。おそらく雪の塊が砕けたあとだろう。
ここは雪崩ルートではなかった、けれど風圧に飛ばされた雪の塊が国村を襲って吹き飛ばしたのだろう。
だからきっと埋没も深くはないはず、ザイルを曳きながら英二はざくざくと雪を掻いた。

「俺もやります!」

足を負傷している遭難者の男も英二の傍で雪を掻いてくれる。
おそらく深くない場所にいる国村を掘るのには、スコップでは逆に危ない。
掘りはじめてすぐ25cmほどで、青いウェアが雪の底から現れた。

「…国村っ!」

雪崩の生存率は埋没から15分程度で急速に下がる。
窒息の場合は埋没15分以内で92%まで低下、35分後には30%にまで低下する。
そして外傷あるいは低体温症の場合、2時間後には生存率はほぼ0%となる
雪崩の到来は10:00だった、そして国村が弾き飛ばされたのは雪崩到来の10~15分後位だった。

クライマーウォッチの時刻は10:25 ― 生存率の境界線「15分」にかかっている

絶対に助かる、絶対に援けてみせる、絶対に連れて帰る、自分は約束をした。
そんな祈りの中で英二は雪を掻きだし、雪を払って国村の体を掘り出していく。
そして黒髪の頭が雪の中から現れ、両掌で覆った横顔が現れた。その左掌にはザイルが巻き込んである。

「国村!」

呼んでも動かない。
低体温を起こしかけたか、雪崩の衝撃かで意識が薄くなっているのだろうか。
そっと国村を静かに抱き上げると英二は、遭難者の男が広げてくれたツェルトの上に寝かせた。
急に外気にさらさない様うすく体表に雪を残したままツェルトで体を覆っていく。
呼気はある、外傷も無いから低体温か脳震盪だろう。国村のサングラスを外し英二は呼びかけた。

「くにむら!起きろ!」

かすかに長い睫がふるえた。
そしてゆっくり細い切れ長の目が披かれると、底抜けに明るい目が笑った。

「…あれ、宮田?…なに。泣いてるのかよ、おまえ?」

笑いながら身じろぎして、登山グローブの指をツェルトから出した。
そして英二の額を小突いて笑いながら言ってくれた。

「大丈夫だ、軽く脳震盪を起こしただけだろね?他は何ともない、無事だよ、俺は」
「ほんとか?首とか大丈夫か、吐き気は?」
「うん、大丈夫だな。寒気も無いな」

言いながら起き上がると、からり笑って伸びをした。
そして掌を動かし首を動かすと、ゆっくり立ちあがってみる。
一緒に立ちあがって様子を見る英二に、軽く頷いて国村は笑ってくれた。

「うん。大丈夫だ、ありがとな、宮田。おまえがね、ザイル掴んでさ、すぐ掘り出してくれたお蔭だな」
「…よかった、」

ほっと息ついて英二は笑った。
笑いながら頬の涙を払ったグローブの指を見るとかすかな血がついている。
どうも氷の欠片で頬を切ったらしい、それでも気にせず英二は国村に訊いた。

「おまえ、何があった?ザイルが引っ張られたからさ、おまえのピッケルが雪から外れたな、って言うのは解ったけど」

「うん、雪の塊がね、突然ぶつかったんだよ。
 たぶん雪崩の衝撃で飛んできたんだろな?で、ピッケルごと俺、吹っ飛ばされたんだ。
 でも、アンザイレンザイルと確保ザイルのおかげでね、遠くへ飛ばされずに済んだんだ。
 それで強風のなかで、斜面に投げ出されてさ?そこへ砕けた雪の塊がふってきて、確保ザイルが手から離れかけた」

話ながらツェルトを片づけると、救助者の男をまたザックを利用して英二は背負った。
そして上方からまた英二をザイル確保してくれながら国村は話してくれる。

「それでさ、雪の塊ぶつかったせいで、ちょっと脳震盪起こしたんだろな?
 意識が一瞬は遠のいたんだ、そしたら宮田が怒鳴ったんだよね。で、なんとかザイルを掴むことが出来た。
 そこへ風圧で飛ばされた雪が俺に積もってさ。エアポケット作るために顔を掌で覆って、そのまま意識が遠のいちゃったんだよね」

「そっか。…よかったよ、おまえが助かってさ」

ほっと息ついて英二は微笑んだ。
そんな英二に笑って国村が言ってくれた。

「うん、おまえさ、俺の専属レスキューデビューまでしちゃったな。この最高峰の富士山でさ」
「あ、…そうだな。あ、なんかちょっと感動するな。でもさ、おまえが元気で無事にいることが一番だよ」

きれいに笑って英二は答えた。
トップクライマーを嘱望される国村。そのアンザイレンパートナーで専属レスキューとして、今日この富士山で初めて務めた。
予想外のデビューだったけれど、日本の最高峰でのデビューは良いなと素直に思える。
でも何事も無いのがいちばん良いな、そう思う英二に国村が笑いかけた。

「うん、ありがとうな。ほんとに。今日の昼飯はさ、俺が奢ってやるよ?」
「ありがとう。あ、腹減ったな、たしかに」

そう笑いあいながら6合5勺で山小屋の主人と合流し、五合目の山小屋まで下山した。
山小屋では主人たちが温かい汁粉を仕度して振る舞ってくれる。
熱くて甘いものが冷えた体に旨い、ほっと息ついていると遭難した男が謝ってきた。

「ほんとうに、ご迷惑をすみませんでした…俺、勉強不足でした、すみません」

きちんと頭を下げてくれている。
きっと今度からは勉強して山に来てくれるだろう。
そう思いながら微笑み返した英二の横で、急に低気圧が発生して細い目が据わった。

「ほんと、すみませんだよ、なあ?
 あんたの所為で雪崩に遭ってさ、俺なんて危うく滑落させられる危険なとこだったんだよなあ?
 自分の甘い判断ミスと不勉強がさあ、他人の命を危険に晒したんだよね?殺人未遂だなあ、おい。解ってんの、あんた?」

今回は国村が怒るのも無理ないだろう。
この男は今日の気象条件で登るという無謀をした、その為に国村と英二を雪崩の危険に巻き込んだ。
ちょっと下手なフォローが出来ないな?少し困りながら英二は汁粉の椀を抱えていた。
そんな英二の隣では容赦なく暴風が巻き起こって、勉強不足の男を叩いていく。

「ここってさあ?冬の富士山だよなあ、エベレストと同じ気象条件だよ?だからさあ、ほんとの山ヤしかさあ、登れねえんだよ、あ?」
「……はい、」
「天気予想もロクに出来ない、そんなヤツはなあ、登るんじゃないよ?マジ迷惑だね、自己責任とれないことするんじゃないよ?
 だいたいさあ、なんだってあのタイミングで登ってんだよ?わけわからないね、ベテランだって登らねえよ、あんな悪天候、ねえ?」

いつもならフォローするところだろう、けれど今回は自分もすこし腹が立ってしまった。
この大切な友人で最高のクライマーを危険に晒したことは、本音やっぱり許しがたい。
それに今ここで確実に反省してもらう方が彼本人の為になるだろう。
もうしかたない、存分にどうぞ国村?心でつぶやきながら英二は汁粉を啜りこんだ。
そうして低気圧の通過を待つと英二は穏かに国村に笑いかけた。

「さ、国村?そろそろ帰ろう。一緒に昼飯食ってさ、一緒に帰ろう?」

笑いかけながら英二は立ちあがった。
こんなふうに必ず一緒に帰って、絶対に大切なひとの隣へ帰り続ける。
その為に自分は出来る限りの努力をするだろう、そしてまた最高峰へ登りに行く。
そんな想いに微笑んだ英二の横に国村も立ちあがると、底抜けに明るい目が笑った。

「うん、帰ろっかね。で、宮田?4月また登りに来るだろ?ここの予約してこうよ」

いつもの調子で飄々と笑って誘ってくれる。
自分が遭難しても国村は山も雪も愛している、しなやかな強靭さが明るくて英二はほっとした。
そしてすこし考えてから英二は答えた。

「そうだな、予約していこう?また最高峰にね、おまえと一緒に俺は立ちたいよ」

最高峰で並んで立つこと、そして想いを届けること。きっと自分はずっと、最高峰の『点』に立ちに行くだろう。
自分のアンザイレンパートナーに答えながら、そんな想いに英二はきれいに笑った。






(to be continued)

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脱力・・・ (深春)
2012-01-24 00:22:50
はあああああああ……良かった、国村。
宮田、あんたサイコーだよ。

一文字、一文字、追うことが怖くて、けど先が知りたくて、
ハラハラしながら読みました。
智さん、凄すぎます。
そして漫画業界の噂だと、主要キャラ亡くすと部数が伸びる、とかありますが、
そんな奇策なぞ素知らぬ勢いで、王道一直線書ききってくださり嬉しい限り。

そもそも、智さんの世界観は、絶対の約束をいかに魅せるかだと勝手に思ってますので。
国村、ほんっっっっっっっっとに良かったです。


・・・・ぐったり(苦笑)


やはりこういう場面は、避けられないですよね。
国村も宮田も、いちいち愛する人には報告しないんだろうな、、とか?
湯原の場合、自らもじき危険な領域にいくので、お互い様な間柄、無事に帰ることで全てオーライなのかな?
とか思ったりするのですが。

美代ちゃんはどうなんでしょ。普通の女の子ですし。
国村を繋ぎ止められるだけの逞しさはありますが、彼の能力を信じ切って
まったく心配しないというのも、どこは現実を半分しか見てない感じがして、自分的に美代っぽくないかもな、と思ってます。

あの国村に、危ないから行かないで、なんて言は絶対いわないでしょうに、
けど、心配を一人押さえ込んで我慢して耐えて、というネガティブな感じも違うような・・・。

う~ん、美代ちゃんはこうした不安を、どう解消しながら国村の隣にいるんでしょうね。
そして国村もどうやって、美代ちゃんが離れないように配慮してるのか。


・・・ここまで書いてお気づきかしら?笑

国村と美代ちゃんの、幼なじみから恋人となって、
そして色々な課題をどう乗り越えてきたのか、
気になってきました。

国村の恋バナも読んでみた~い

もちろん、智さんのお時間とお気持ちとが大前提ですが。
読みたい反面、二人の関係は現作中くらい、小出し感の方がよい、のも分かるのですが。

宮田と湯原の眼福なハナシを聞きたがる彼ですから、
こちらとて、国村のそんなハナシも興味湧きますwハイ

深春さんへ (智)
2012-01-24 01:26:41
深春さん、こんばんは。

ハイ、無事でした国村。笑
このターンは書いてとても楽しかったです。疾走感のある冬山の荘厳と冷厳を描くターンでした。

そして深春さんのおっしゃる通り「絶対の約束」はこの物語の主題です。
唯ひとつの恋愛に生きる男の姿を描こうと始めたのが、この宮田の物語です。

美代の想いはクリスマスイブの宮田との会話(誓夜1)や湯原への手紙にもある感じですが、近々のお話に美代と湯原の会話が登場します。そこを読んでいただくと彼女の逞しさや想いが楽しいかと思います、湯原の想いも。
美代と湯原の想いは、山岳レスキューのご家族の方たち誰もが抱える事なんですよね。特に富山県警は過去に2名殉職、重傷者は何度も出しています。そのご家族の方たちの覚悟はもう言葉がありません。。

国村の話はですね、ちょっとオリジナルで書いている所なんです。なのでWEB公開の予定は未定でして…すみません、本当に申し訳ありません!天才と呼ばれる人間の等身大の姿をきちんと描ければいいなと思います。

そういう国村をイイ!と言って頂けると嬉しいです!
そして国村の話を読みたいと言って頂けて大喜びしました。
いつか天才クライマー国村光一の物語をお目に掛けることが出来たら良いなと思います。ほんとうに。

国村は実在の世界最強とうたわれるファイナリストクライマーの方をモデルにしています。
そしてその方は本当に奥多摩在住です。ご出身は他地域ですし、性格や職業、背景など全く違いますが。
美代も実在の方をモデルにしています。富山県警山岳警備隊員の方の奥様がモデルです、その方はご自身のお父様が剣岳の名案内人です。

恋エピソードを部分的にですが…
美代と国村はもう子供のころから恋人同士です、赤ちゃんの時からずっと。
国村は一度もブレない男です、物事の確信をズバッと見抜いてしまうので。そして美代の純粋さはある意味最強です。笑
なので保育園から農業高校までずっと一緒の学校に通い、通学は必ず手を繋いでいました。
そうです、国村の恋愛行動パターンは宮田と似ています。笑
たぶん宮田との会話でちょいちょいエピソードは出てきます。美代と湯原の会話とかでも。

Unknown (深春)
2012-01-24 20:11:56

国村光一物語!
読みたい、読みたいです!!

いつかで構いませんので。
いつかがあるってことを鼻先ニンジンにして、日々過ごしたいと思います(やや言い過ぎ?でもそれくらいの興奮度です)


>国村の恋愛行動パターンは宮田と似ています

それは感じてました~

だのに、経験値の高い宮田と対等、いえそれ以上な所が不思議なお方です。
あ、そうか。。。
宮田の場合、数は多いけど中身がナイのですね。

語録だけ並べると、オンナ落としの国村、みたいですが、
身は綺麗なんですよね。。。
純粋な美代ちゃん相手に、どこをどうやったら、エロオヤジな面が育まれるのか謎ですw

ではそこら辺も「国村光一物語」あたりで、お待ちしています~
深春さんへ (智)
2012-01-24 22:27:38
深春さん、こんばんは。

そんなに国村をご愛顧くださって感謝です、ありがとうございます!

オンナ落しの国村。笑 ほんとにねえ

エロと恋愛は別ですしね、男は。
国村はフラットでボーダレスな面があるので、湯原にもちょっかい出しますし、ねえ?
読んでくださっている方から「湯原が国村に手籠めにされたら」的なお話もあったくらいですが。
でも湯原に手を出したら、酷い難所でアンザイレンザイルを宮田は泣きながら断ち切りそうです。
それでも谷底から這い登って笑いながら宮田の額を小突くのが国村です。笑


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