萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第43話 護標act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-05-22 23:54:11 | 陽はまた昇るside story
険峻、護り手の道標



第43話 護標act.1―side story「陽はまた昇る」

払暁、早月尾根は白銀に輝いた。
北アルプス三大急登といわれる早月尾根は、急斜度を一挙に標高2,200mを登りつめる。
この天に昇っていくような銀陵を、今日初めての陽光が煌めいていく。
まばゆい暁に目覚めだす山へ、笑顔が真白な吐息と風にこぼれた。

「…きれいだ、」

急登の鋭利な稜線は、長大のびやかに聳え立つ。
アップダウンの軌跡描いて空駆け昇っていく早月尾根、この姿が竜のように見えてくる。
いま朝陽きらめく雪陵は、天を裂く剱の頂めざし諒闇から光に顕れだす。
そうして光輝く白銀の竜は、蒼穹の点を呑もうと馳せていく。
この白銀の背中にいま、自分は立っている。

「剱岳もね、別嬪だろ?」

透明なテノールが隣で笑いかけてくれる。
ほんとうに言う通りだな、素直に頷いて英二も笑い返した。

「うん、すごい別嬪だな?雪山は俺、やっぱり好きだな、」
「だろ?雪の季節の山はね、そりゃ別嬪だよ。ただし、危ない別嬪だけどね、」
「そうだな、凍傷ってヤケドの危険もあるしね、」
「だね、」

笑いあい眺める彼方、遥かな稜線から茜色の光は大きくなっていく。
陽光まばゆくなる雪稜に、英二はサングラスのゴーグルをかけた。
その隣でザックからカメラを取出しながら国村が微笑んだ。

「宮田、ちょっとカメラ使ってイイ?」
「うん、もちろん、」

頷いた英二に笑って、底抜けに明るい目はファインダーを覗きこんだ。
シャッター音が風に雪に消えていく、ちょっとプロみたいなカメラホールドが決っている。
さすが山岳カメラマンの息子だな?そんな感想に微笑んで英二も携帯のカメラでシャッターを切った。
すぐに電源を落として電力温存のためポケットに仕舞いこむと、代わりにオレンジのパッケージを取出した。
2粒取りだして1つを口に放り込む、ふわりオレンジの香と蜂蜜の甘さが優しい。

―周太も、今頃は起きているかな?

遠い白銀の稜線の彼方を眺めながら、この飴の味に婚約者の想い馳せてしまう。
いま口にふくむ優しい味の飴は、元々は周太が幼い頃から口にしていた物だった。
すこし喉が弱い周太は飴をよく口に入れていて、この「蜂蜜オレンジのど飴」が好みでいつも持っている。
それで英二が卒配先の青梅に発つ別れ際、この飴を周太は口に放り込んでくれた。
以来ずっと英二もこの飴を持ち歩いて、山では行動食としてよく口に入れている。
この飴を初めて口にしてから、半年以上が過ぎた。
あの頃はまだ、自分が本当に高峰を目指せるのか?それすら不確かなまま山岳救助隊を希望し、御岳駐在所に赴任した。
そして今、警視庁山岳会のエースとアンザイレンを組んで冬期最高難度の高峰に続く尾根に佇んでいる。

―人の道は、解からないな…

こんな自分の進路を1年前は、誰も想像できなかった。
いま目の前に広がる青蒼と白銀だけの世界は、あの頃ポストカードの世界だった。
きれいな所だ、どんな場所だろう?そんなふうに眺めながらも、自分には行けない世界だと思っていた。
けれど今、その世界に立っている。

…父とこうして山を下りたんだ…山岳地域の警察官なら、警視庁は奥多摩方面

ふっと口に香るオレンジと蜂蜜の甘さが、この世界に導いた一言を呼んでくる。
あの警察学校での山岳訓練で、初めて周太をこの背中に背負った。あのときの言葉と体温が懐かしい。
あの時は不慣れなザイルが肩に擦過傷を刻みこんで、今も湯に温まると傷痕が浮びあがってしまう。
この傷痕は勲章、そして不甲斐ない自分への自戒だと想っている。

あのとき自分は判断ミスを犯し、周太を遭難させた。
そして周太を、下山まで背負い切ることも出来なかった。
もう二度と、あんな力不足は嫌だ。この悔しさを傷痕に刻み込んできた。
この想いが訓練と勉強に集中させて「堅物」が青梅署の綽名になった。

あのとき自分は周太の60Kgもない体重すら支えきれなかった。
けれど今は、この背に60Kgの荷を軽々背負い1,500mの高度を一挙に登りあげてきた。
そして青と白の世界の真中で、最高のクライマーのアンザイレンパートナーとして佇んでいる。
ただ周太の為に努力した、その結果が「今」を作りあげた。

唯ひとり恋をして、ずっと傍にいてほしくて、だから守りたいと願った。
その為に周太と同じ道を選びたくて、けれど身長も適性も合わなくて、諦める時は本当は泣いた。
それでも諦められなくて、足掻きたくて。こんな不甲斐ない自分を作りかえたかった。
なんとか周太を守る力を付けたい、そのためなら厳しい現場に向き合いたいと望んだ。
そうして掴んだ「今」は、自分自身の夢と誇りを白銀かがやく峻厳に見つめている。

―人の道は、運命は、解からない…他が無くて選んだ道で、望みが叶うこともある

想いと見遥かす稜線の純白たちは、朝陽にまばゆい。
この氷雪の世界が今はもう、自分の本当の居場所だと馴染んでいる。こんな今が大切で大好きで、そして切ない。
この風雪と低温、気圧のプレッシャーが強い高峰の世界には、周太は共に立つことが出来ない。
いちばん愛するひとに世界一美しいと想う光景を見せられない、それが切なくなってしまう。

―周太?この世界は、ほんとうに美しいよ。見せてあげたい、ここに一緒に立って

この願いは叶えられない。
この氷と雪が支配する冷厳の世界では、適性無い者は生命すら奪われるから。
たとえ適性があったとしても、どんなに優秀な山ヤであっても、生命を落とすこともある。
そうした危険は、山岳レスキューのプロであっても例外ではない。
この哀しい事例を英二は、白銀の竜の背に見つめた。

「お待たせ、宮田、」

テノールの声にふり向くと、カメラをしまい終えた国村が口をごりごり言わせている。
好物のアーモンドチョコを食べているパートナーに英二は、出しておいた飴を差し出した。

「はい、歩きながら口に入れて」
「さんきゅ。ほら、こっちも食いなね、」

礼を言いながら受けとって、アーモンドチョコレートを2つ渡してくれる。
受けとって口に入れながら、英二はパートナーに笑いかけた。

「ありがとな。写真、あとで見せてくれる?」
「もちろんだね。今夜、愛の巣でご披露するよ、」

相変わらずのエロトークに明るい目が笑っている。
雪洞が「愛の巣」だなんて寒そうだな?可笑しくて英二は笑った。

「その言い回し、ちょっとヤダな?」
「嫌じゃないね。俺たち運命のパートナーだから、愛があるのは当然だろ?さ、こっから一挙に1,000m登るからね、」

ちょっと違う愛だと思うけどな?
そんな疑問に首傾げながらも英二は確認をした。

「目標タイムは、3時間で良かった?」
「そ。馬場島からここまで、3時間半で来れたからね。コンディションにもよるけど、俺たちなら充分だろ?体調はどうだ、」

俺たち、そうに山っ子に言われることは山ヤとして光栄だ。
けれど自分はまだ、遠く国村に及ばないことを一番自身が知っている。
この短時間での山行は、国村のルートファインディング能力無しには出来ない。
こうした肌感覚と地形の読解力を自分で出来るようになって、一人前の山ヤと言える。
だから自分も早く備えられるよう今日も学びたい。この卓越した先輩に敬意想いながら、英二は笑って答えた。

「いつもどおりだよ、高度障害もない。」
「よし、宮田も標高差には強いみたいだね?おまえ、ほんとタフだよな、」
「国村こそだろ?川崎からここまで運転して、2時から歩いてるんだから、」
「俺はガキの頃から馴れてるからね。でも宮田は、今シーズンがお初だろ?それでこれだけ出来りゃ、大したモンだね、」

クライマーウォッチの高度計を見、話しながら歩き始める。
スノーシューで登っていく足元は、浮力が強くラッセル能力が高いため進みやすい。
けれど相応の重量があるから馴れないと歩き難い、それでも英二の足元はきちんと進んでくれる。
コツがきちんと掴めているらしい、よかったなと思いながら英二は口を開いた。

「奥多摩ではさ、これ履くこと少ないよな?」
「だね。でも宮田、ちゃんと歩けてるな?良かったよ、」
「国村に言われると、自信持てるな、」

雪深い尾根を踏み、早月小屋の前を通って標高2,400m付近に着いた。
ここでスノーシューからアイゼンに履き替えていく。

「靴の裏の雪、キッチリ落としなね?でないと脱げちゃうからさ、」
「うん、ありがとう。風、少なくてよかったな」

もし風があれば、バランスを崩されやすくなる。
特に安定感を欠きやすい足元の装備確認時は、風に煽られやすくなる。
それが原因となって転倒したまま、滑落に繋がり亡くなった山ヤも多い。

雅樹の滑落も、おそらく同様の原因だったと推定されている。
雅樹を浚いこんだ突風のことを国村は、滑落現場から槍ヶ岳に向け怒気をぶつけた。

―…槍ヶ岳っ、雅樹さんを、返せよっ!…なんで突風なんか吹かせたんだよ!
  おまえが変な風で無理矢理に浚ったんだ、返せよぉっ、俺のパートナーを返せ!槍ヶ岳ぇっ!俺の大好きな人を返せ!

あの悲痛な叫び声は、今も英二の心から消えない。
あの北鎌尾根の時から国村は、前以上に英二の傍にいたがる。
おかげで川崎ではまた、周太と国村に取りっこされるはめになった。

―それなのに周太は、…やさしすぎるから、

純粋すぎ優しすぎる恋人に、心へ吐息がこぼれていく。
こぼれる吐息に心から、「書斎の記憶」がそっと起きあがる。

川崎を発つ直前、英二は周太を書斎に誘った。
書斎にある馨の写真に挨拶したい、そう言って周太と2人きりの時間を作った。
馨に出立の挨拶をして、それから周太を抱きしめキスを交わした。
離れたくないキスを離して見つめた先で、黄昏そまる光のなか黒目がちの瞳はやさしく英二に微笑んだ。

―…英二、光一の傍にもいてあげて?光一のこと温めてあげて…寂しいから、ね?

いつも周太は見すごせない、人の痛みを抛り出せない。
誰よりも英二の温もりを求めてくれている周太、それでも国村の痛みを無視できない。
けれど、英二が光一の痛みを「温めて」受けとめたら?

でも周太は泣くだろ?そんなの俺は嫌だ。

そう英二は答えた。
けれど周太は優しい笑顔のまま、ゆるやかなトーンで言ってくれた。

―…ん、泣くね、きっと…だから、英二が泣き止ませてね?…いっぱい愛して?

そんなふうに優しいおねだりをして、温かいキスをしてくれた。
その笑顔は優しくて穏やかで、純粋に美しかった。

本当は甘えん坊の泣き虫で、きっと泣くに決まっている。そう周太は自分で解かっている。
それでも周太は国村の孤独を抛り出せないで、純粋な優しさのまま英二にあんな願いを言ってしまう。
だからこそ尚更に想いが深くなる。あの純粋な婚約者の隣にずっといたい、離せない、そう願ってしまう。

―周太、こんな場所に居ても俺はね、君を恋しがってるよ?…ほんとうに、愛してるんだ、

こんな自分は本当に恋の奴隷で、恋人の願いを無視なんて出来ない。
あの優しい恋人が願ってくれるよう、自分自身の意志でもアンザイレンパートナーを守りたい、そう願っている。
この自分の願いに恋人は、心から願いを重ねて告げてくれた。こんなふうに同じよう想って心繋げてくれる、あのひとが恋しい。
この恋しさがきっと、どこからも自分を無事に婚約者の許へ帰らせるだろうな?
素直な恋慕に微笑んで、英二はこの山に抱いた想いをザイルパートナーに言った。

「ここは、厳しい現場だな。雪も地形も険しくて、」

現場、そんな単語が自然に口から出てくる。
山岳レスキューとしての視点でも自分は、山を見てしまう。
特にこの山は、そんな想いが強くなる。

「だね。俺たちの現場とは、また違う世界だね、」

隣で国村も頷いて、山頂を見あげている。
この山頂を目指す人々と、この山域を守るレスキューたちの現場。
同じ山ヤの警察官として、この現場で起きていく現実を何も想わないことは出来ない。
この山に起きた哀しい現実の現場を見あげながら、透明なテノールが英二に微笑んだ。

「じゃ、行こっかね?あのカニのハサミまで、」
「うん、」

ザイルパートナーに頷きながら英二は、この尾根に鎮まる形なき道標を仰いだ。
いま見えている鋭鋒のすぐ近く、難所と呼ばれるポイントにそれはある。
この道標に眠る20年以上前の軌跡へと、英二は歩き出した。

「風は少ないし、雪も悪くないね、」
「朝早いと、雪が固くて良いな、」

時折声かけあいながら、アイゼンで雪を踏み分け高度を稼いでいく。
標高2,470mに登りあげ、東方を見あげると剱の山頂が正面から見おろしてくる。
複雑にトレースされる稜線が威容を魅せて、要塞のように聳え立つ。この姿に納得して英二は微笑んだ。

「ほんとうに『岩と雪の殿堂』って感じだな、要塞みたいだ、」
「だろ?鉄壁の別嬪、って感じだよね、」

アンザイレンするザイルの向うから、からり笑ってくれる。
肩越しに細い目が笑んで、また先を見ながらテノールの声が教えてくれた。

「早月尾根はね、厳冬期の正月あたりは今より雪が少ないんだ。で、岩場の登下降の難度はややアップするね。鎖場とかさ、」
「積雪量だけでは難度は決められないな、ほんとに」
「だね?季節ごとそれぞれに、難しさは違ってくるな。美しさが変わるようにね、」

楽しげに山を透明なテノールが話してくれる。
こんなふうに山を愛し続けている山っ子を、きっと雅樹も愛していただろう。
そして今も雅樹は、見えないザイルで愛する山っ子とアンザイレンを組み歩いている。
そんな確信に微笑んで英二は、白銀かがやく稜線を辿って行った。

登っていく道の南側、右手に広がる毛勝谷の源頭が稜線に迫る片側が切れ落ちている。
そこから急登を越えあげていくと白銀ひろやかな尾根に出た。
まばゆい天空の雪原に英二は笑った。

「きれいだ、」

真青な空うかぶ純白の平原を微風が吹き抜けていく。
おだやかな風に銀の粒子が陽光きらめいて、凍れる天の原を輝きにくるみこむ。
蒼穹はしる風の音、太陽うつす雪の耀き。中天ふる音と光そそぐ平原は、高潔な静穏厳かに充たされる。
この明るい静謐に佇む天空の雪原は、ナイフリッジ険しい道のなか別世界だった。

「ちょうど朝陽も良いしね、輝くエデンって感じだろ?」

透明なテノールが愉しそうに応えてくれる。
ほんとうに言う通りだな?パートナーの言葉に英二は素直に頷いた。

「うん。人の世界じゃない、って感じがするな?…荘厳、っていうのかな、」
「人間の領域じゃない世界だからね?この雪と氷の時は、特に好いんだ、」

この世界が愉しい、そんなトーンに透明なテノールが笑っている。
心から楽しんでいる細い目が笑んで、登山グローブの指が剱の頂を示した。

「まずは行こうよ?で、帰りにノンビリ眺めよう、」

楽しそうに指さす先に、氷食鋭鋒の尖端が輝いている。
あの場所にこれから登る、その期待と緊張に英二は微笑んだ。

「おう、雪のコンディション良いうちに、詰めたいよな、」
「そ、解かってきたよね?宮田もさ、」

笑いあいながら雪の平原を、再び進みだした。
さくりさくりアイゼン踏みしめ雪原を抜け、エボシ岩を越え2800付近の斜面を直登していく。
そしてシシ頭に来ると、先行していく国村が声を掛けてくれた。

「ここはね、冬山のセオリー通りに行くよ」
「岩稜通しに行くんだな?」
「そ、トラバースは無し。じゃないと訓練にならないからね。じゃ、行くよ、」

楽しげに細い目を笑ませると登攀を始めた。
青いウェアが相変わらずのスピードで登りあげていく。
すこし間隔をとって英二も登っていくと、雪庇のはり出しはほとんど見られない。
ここからコルへの下降はザイルをフィックスする。
無事にコルへと降りると、左手の剱尾根側からブリザードが吹きつけた。

「この先だね、」

凍れる風に頬赤らめた横顔が、先のルンゼを見た。
頂上直下、氷が詰まったルンゼは雪の状態もしっかりしている。
ここが「カニのハサミ」と呼ばれる場所になる。
以前ここには2本の岩塔が聳え、それが蟹の鋏に似ているところから呼称がついた。
けれど1969年に崩壊し今は名称だけが残っている。そして難所であることも変わっていない。
この凍れるルンゼに「難所」の意味を見つめ、英二は頷いた。

「うん、行こう、」

コルの雪面踏んで、間もなくルンゼの前に立つ。
ルンゼ基部の雪上に片膝をつくと、英二は小さな酒瓶をザックから取りだした。
瓶の蓋を開けて手渡す、受けとって国村は微笑んだ。

「じゃ、お先にね、」

奥多摩の酒を提げ、国村はルンゼの基部へとしゃがみこんだ。
そして池ノ谷にすこし寄った場所へ、登山グローブの手は静かに酒を注いだ。
この酒は、谷で眠りについた山ヤの警察官に向けられる。

1990年3月、富山県警山岳警備隊は積雪期山岳遭難救助訓練を行った。
このとき早月尾根を登頂中だった隊員を、表層雪崩が襲いこんだ。
危険を察知した分隊長は咄嗟に、後続の隊員に注意を促すため「ピッケルを刺せ」と大声で怒鳴った。
そして彼自身は雪崩の爆風に飛ばされて、池ノ谷へと滑落してしまった。

厚さ2m、幅200mの雪崩。
このとき谷底から舞い上がった雪煙は、稜線まで立ち昇った。
この池ノ谷は雪崩の巣窟、相次ぐ雪崩と土石流がふいに襲う場所になる。
そのため捜索は難航し、彼が発見されたのは7月の中旬すぎだった。

彼は、富山県警山岳警備隊2人目の殉職者になった。

―立派な先輩だ。山ヤとして、警察官として…だから、亡くなったんだ

分隊長の責務と山ヤの誇りのもとに、彼は仲間の安全を叫んだ。
仲間の信頼が厚い立派な山ヤの警察官だったと、彼を知るひと皆が言う。
こういう先輩がいてくれるから、今、自分達は遭難救助の現場に立っていける。

山ヤの警察官が立つ現場は、山の最も峻厳な場。
どんなに険しい場所であったとしても、遭難者が待っているなら駆けつけない訳にいかない。
生きて救助を待っていても、死して生命の抜け殻になっていても、家族のもとに帰す責務が自分達にはある。
いずれも山では一刻を争う、標準タイムの半分で山行する位は当たり前に出来なくてはいけない。
そのために山ヤの警察官は、卓越した山岳技術と体力、的確な判断力が要求される。

だから厳しい訓練を誰もが積んでいく。
50Kg以上の荷を負う登攀訓練も当たり前、危険個所でこそ人を背負い救助するのだから。
積雪期訓練が危険でも遂行する、経験値こそが現場での救助活動に安全と成功を与えるのだから。
こんな自分たちの任務は訓練だって命懸け、現場ならば尚更に体を張るのは当然のこと。
こんなふうに山ヤの警察官は、生と死の分岐点で生きていくのが日常になっている。
だから後藤副隊長が、いつも言ってくれることがある。

『必ず皆、無事に帰ってくるんだよ?絶対にだぞ、いいな?』

この山域守る山岳警備隊でも、隊長は隊員たちに言う。

『全員、無事帰還せよ』

こんなふうに山ヤの警察官は互いの無事を祈り合う。
レスキューである自身が無事に帰らなくては、遭難者を家族のもとに帰すことは出来ないのだから。
なによりもまず、自分が無事に生きて帰ること。それが最大の任務かしれない。
そうして山をめぐる生と死の現場に、山ヤの警察官は立ち続けていく。

『いかなる遭難死も哀しいよ、』

後藤副隊長はそう言って寂しく微笑む。
どれも哀しいからこそ、繰り返さないために哀しい実例から学ばせて貰う。
そうして山ヤは謙虚に努力重ねて、二度と同じ悲哀が起きないよう心身に刻みこむ。
そんなふうに哀しみと向き合って、山に眠った仲間たちの想いを繋ぎトレースを繋いでいく。
それは山ヤの警察官にも言えること。
ここに眠る山ヤの警察官から、同じ道に立つ自分たちは多くを学ぶ。
そうして、この先輩が遺した軌跡は道標の1つになって、今の自分たち山岳警察の安全と成功に繋がっていく。

「宮田、」

底抜けに明るい目が温かに笑んで、酒瓶を手渡してくれる。
微笑んで受け取ると、英二はそっと酒を雪へと傾け注いだ。
見つめる剱岳の雪は、ゆるやかに奥多摩の酒を呑んでいく。
雪そそがれる酒に、もう一つの運命が英二を見つめた。

―酒を手向けられるのは、自分だったかもしれないんだ

この3週間ほど前、英二自身が巡回中に雪崩に巻き込まれた。
同じよう、急斜に取り付いている最中を突如襲った表層雪崩に、谷底へと滑落させられた。
それでも英二は奇跡的に助かった。この奇跡は1つ間違えば起きることなく、自分の運命は「死」だった。

―本当に、紙一重なんだ…生も死も

山に生きる。
この峻厳な掟に生きる道では、紙一重の差で運命が分岐する。
この「紙一重」が、どんな基準で分たれるのか?
この問いかけに100%の可能性として解答できるものなど誰もいない。
だから山ヤは謙虚に山を学び、最善の努力を積みあげ、いかなる状況においても「自助と相互扶助」が出来る力を備えていく。
そんなふうに山に謙虚な姿勢に接していく「山の鉄則」を守る、それが山を登る自由を守る唯一の道になる。

ただ紙一重、生と死に分たれていく峻厳の運命。
そんな運命に山ヤの警察官たちは、立ち会い続けていく。
山のレスキューに生きることは、哀しみと向き合うことになる。
救助者として、当事者として、2つの立場の哀しみを見る。そして自らが哀しみの対象となる時もある。
このことを英二は自身の遭難事故から心に刻み込んだ。もう、ここに眠る山ヤの警察官を他人事に想えない。

「なあ、国村?…俺と、この先輩との差は、何だったのかな?」

心に映る問いかけが、ナイフリッジの風に零れだす。
どこにも完全なる答えなど無い問いかけ、そう解っていても溢れた想い。
この問いかけに、透明なテノールは温かに微笑んだ。

「運命、」

言葉に、英二はウェアの胸ポケットを静かに掴んだ。
ここには紺色の房がついた紅い守袋が、大切に納められている。
この守袋の作り手は祈りながら、無事の願いと「不可思議の偶然」を籠めてくれた。
この「不可思議の偶然」こそが、運命と言えるのかもしれない。そんな想い見つめた先、アンザイレンパートナーは微笑んだ。

「それだけだよ、」

無垢の透明な目は深淵を見つめ、英二に笑いかけている。
これ以外の答えなんてないね?そんなふうに目は笑って、青いウェア姿は立ち上がった。

「ここはね、アイゼンをガッチリ効かせて駆け登るよ?で、天辺にまっしぐら。いいね?」

前に進もう?山を楽しもう?
そんなふうに細い目が愉しげに笑いだす。

「さっさと登って堪能しよ?で、さっきのエデンで休憩してさ。そのあとは雪洞掘って、ノンビリ飲みたいね、」

テノールは楽しげに笑ってくれる。
けれど国村こそ、この場所に最愛の山ヤの姿を重ねていただろう。
それでも笑って立ち上がって、山に生きる道を登って行こうとしてくれる。
こんなふうに国村は、まばゆい強さが美しい。こんな男とパートナーを組んでいる自分は、きっと最高に幸せな山ヤだろう。
この与えられた幸せに笑って、英二も立ち上がった。

「うん、頑張って付いてくよ?」
「よし。じゃ、行くよ、」

笑う細い目は、最高の山ヤの魂がまぶしい。
まぶしい底抜けな明るさのまま、無邪気に悪戯な山っ子は白銀のルンゼを駆けだした。
見るまに駆け登っていく青いウェア姿に微笑んで、英二も氷雪にアイゼンの刃を立て登りあげる。
ブリザードも消え、風も少ない。ざくざくアイゼンの刃は雪に音立て氷を噛んでいく。

そして午前8時半すぎ、剱岳山頂に立った。




(to be continued)

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