近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

墓制の変遷と古墳時代の墓制について

2012年04月25日 | 歴史
関東地方の古墳巡りに先立って、墓制の変遷と古墳時代の墓制について辿ってみたい。

縄文時代は、住居のそばに埋葬することが一般的であり、共同墓地としてはストーンサークルが知られるが、弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的となった。

また、縄文期には地面に穴を掘り遺体を埋葬する土壙墓が中心だったが、弥生期は甕棺・石棺・木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていく。





写真は埼玉県松山市丹反町から出土した弥生時代の方形周溝墓及び福岡前原市三雲の南小路遺跡出土の甕棺。

弥生期の墓制は、地域ごと、時期ごとに墓の形態が大きく異なる点に特徴があった。社会階層の分化に伴い、階層による墓制の差異も生じた。

以上のように墓の形態によって分類することもできるが、以下のようにも考えることができる。

それは、弥生時代の墓制は大きく三つの段階に分けられる。第一段階は集団墓・共同墓地であり、第二段階は集団墓の中に不均等が出てくるという段階であり、第三の段階は集団内の特定の人物あるいは特定なグループの墓地あるいは墓域が区画されるという段階である。その場合、墓域は普通、方形に区画されることが行われる。

所謂方形周溝墓は弥生~古墳時代にかけてのポピュラーな墓。

弥生時代前期、近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築くもの。近畿地方からはじまり、東北地方南部から九州まで各地に広がった。

畿内における弥生時代の方形周溝墓は原則的に1基に集団で埋葬する型で、それ以外の地方ではほとんどが1基に単独埋葬する型で畿内と好対照。

とにかくいろんなところにたくさんある墓!というイメージ。

古墳は地方の権力者レベルの墓と云えるが、方形周溝墓に埋葬される人々は最下層ではないにしても、古墳をつくるほどの高い地位にまで入っていないと云える。

日本の墓制史のうえで、7・8世紀は、もっとも大きな転換期で、6世紀末に前方後円墳が消滅し、円墳や方墳が主となるとともに大規模な墳丘は造られなくなる。そして、7世紀になると古墳は、急速に終末を迎える。

約400年にわたって盛んに築造された古墳は、なぜ姿を消すのでしょうか

そして巨大な古墳にとってかわる「墓」とはどのようなものなのでしょうか

紀元3~7世紀頃には、権力者の墓・古墳が出来たが、一般人は路傍に捨てられたり、河川等に造られた墓もあったと云う。

そして仏教文化が輸入され、奈良時代以降、火葬するものもあった。

古墳時代以降天皇制が布かれてからは、一般庶民は風葬・鳥葬が一般的だったらしい。

土葬ならまだ良い方で、インドでも日本でも、昔は、貧しい一般庶民は、遺体を野原や死体捨て場のようなところに捨てて、獣が食べるにまかせていたと云う。

一般人の埋葬については、魏志倭人伝に「その死するや棺有れども槨(木の囲い)無く、土を封じてツカを作る。始めて死するや、停喪(喪に服す)すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主哭泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。」と書かれている。(死ぬと棺に納めるが、槨(棺を覆う施設)は作らず、土を盛り上げて塚をつくる。死んだとき、さしあたって十余日は喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は声をあげて泣き、他人はその周りで歌舞・飲食する。埋葬すると、一家をあげて、水中でみそぎをし、中国で一周忌に練絹(ネリギヌ)を着て沐浴するのとおなじようにする。)

今でも田舎に行けば、葬式には三日間は飲み食い自由というところがある。

一昔前まではそれが当たり前だった。こういう習慣は、廃れず続くものだと感心させられる。


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