創発企業経営

起業13年目の会社の経営、事業報告

阿片王

2022年07月19日 | 日記

「阿片王 満州の夜と霧」を読みました。

著者佐野眞一氏は自ら日本が貧しい頃を知る最後に知り、日本が豊かになったことを最初に時間した世代だといいます。 物心ついたときに遭遇した高度成長経済は心をわしづかみにされる事件であり、戦後の高度成長のグランドデザインは満州国を下敷きになされたような気がすると記しています。

安倍晋三前首相の祖父岸信介は産業部長として満州に赴任し満州開発五か年計画を立て「満州国は私の作品」と述べたそうです。

以下、満州国に関する記述の一部です。

  • 冷暖房付きの特急「あじあ号」は最高時速130キロのスピードで、大連―ハルビン間943キロを13時間半で結んだ。 「あじあ号」の最高速度は、東京オリンピックが開催された昭和39年開業の新幹線「こだま」の速度とほぼ同じだった。
  • 満州国の首都の新京には上下水道が整備され、東洋で初めての水洗便所の敷設も新京から始まった。
  • 大連には東洋一を誇る病院があり、市街地はアスファルトで舗装され、主だった住宅にはセントラルヒーティングが施された。

つまり、日本の戦後の高度成長を支えたインフラは全て満州で実験済だったといいます。

大前研一氏が講演で、広大な中国の東北三省を汽車で旅した時、「日本人はこんなところまで進出していたんだ」と感じたそうです。 日・漢・朝・蒙・満の五族を中心とした東アジア諸民族が居住する多民族国家。 日本の戦後の高度成長を先取りした国家計画は、軍事教育とはいえ、当時の日本には壮大な国家デザインを描ける非常に優秀な人材がいたのだと実感しました。

1932年から13年間だけ存在し、傀儡国家と言われる満州国ですが、現代の日本社会に影響を与え「過去の光で現代を見る」ための歴史的教訓を多分に含んだ国であったと思いました。


非武装地帯

2018年11月04日 | 日記

韓国と北朝鮮の非武装地帯(いわゆる38度線)を訪ねる機会がありました。

北朝鮮が掘ったといわれる南進第3トンネルにある展示館で、朝鮮戦争の死者は600万人という記述を見ました。 600万人はあまりに多いのではないかと思い帰国後調べてみたところ正確にはわからないにしても400-500万人の死者があったようです。 1950年台、戦争に負けた日本が分断されず、朝鮮半島では戦線が釜山から平壌の北まで上下し戦場になったことは、日本ではあまり知られていないかもしれません。

臨津江にかかる橋。 日本統治時代から複線でしたが右側は朝鮮戦争の際に破壊されたままです。

左の臨津江鉄橋は1日1便だけ鉄道が通り、韓国側最後の駅都羅山駅に続いています。

都羅山駅は立派な駅ですが、北に続く鉄路はここまで。北朝鮮の開城まで15Km、平壌まで205km。 北朝鮮と鉄道が通じ、中国鉄道、シベリア鉄道とつながればベルリンまで陸路で行くことができます。

その日が早く来ることを願っています。


木曽

2017年10月13日 | 日記

昨年から木曽に何度か伺う機会がありました。 日本の大動脈、東海道が海沿いの街道なら、中仙道は山の街道です。 日本、本州を知るには両方通ってみることが大事だと思います。中央アルプス、左から三ノ沢岳、木曽駒ヶ岳、木曽前岳、麦草岳(だと思います。)

      妻籠と脇本陣

 

馬籠

 

赤沢自然休養林

 


コスモス

2015年11月01日 | 日記

コスモスが咲く頃は、「月の光が冷たく寒い秋」です。  春の桜に対して、秋の終わりに咲く秋桜は、静かに眺める花のように思います。 コスモスといえば、尹東柱の詩が思い出されます。 

 

コスモス


清楚なコスモスは
ただひとりのわたしの少女、
月の光が冷たく寒い秋の夜になれば
昔の少女がたまらなく恋しく
コスモスの咲いた庭へ たずねてゆく。
コスモスは
こおろぎの鳴く声にもはじらい、
コスモスの前に立ったわたしは
幼いころのようにはずかしくなって、
わたしの心は コスモスのこころ
コスモスの心は わたしのこころ。      (1938.9.20) 

 


田園風景

2015年10月18日 | 日記
今年、春から秋にかけての田園風景を見られたのは幸いでした。
春に田んぼに水が引かれ、田植えが始まり、稲が伸びて穂が実るまで。
 
じっくり半年かけて成熟する変化の過程を見るのは、楽しいものです。
季節ごとに違った景色は飽きることがありません。 こんな景色が見られるなら、態々景勝地に行かなくてもいいなと思います。
 
初夏の稲。  
 
 
 
田園の中の白鷺は白磁の花瓶のようです。
 
 
 
実りの季節は一面の黄金色。 
 
 
 
田園風景は、人が丹精して、わたしたちの命を支えるお米をつくる、本当に価値ある営みだと思います。
 
こんな景色が1年に1回だけ連綿と繰り返されて、大抵の人はその過程を何十回か見たら、この世からいなくなってしまいます。 
 
わたしもあと何回みられるのかなと思います。

ゼロになるところ

2015年08月25日 | 日記

入院中のことを書くのはこれで最後です。

時期は5月、すずめのひなの巣立ちの時期でした。巣立ったばかりのひなが病室の窓際にやってきて、しばらくすると親鳥が迎えに来て行ってしまいました。  出会えると少しラッキー。 病院の中をロボットが走っています。

      

10年ほど前、勤めていた会社を辞め、みぞれの降る中、都内の会社を何社も訪問したことがありました。 失業すると鬱にも近い無力感を感じるもので、将来に希望が感じられないまま、都内の日本庭園で時間を過ごしました。 ベンチに座って水鳥を眺めていたことを思い出します。

かじかんだ手で傘をさして歩いた、落ちては解ける雪混じりのアスファルトの舗道や鉛色の空は、その時のわたしの原点でした。 何か複雑に事情がこんがらがった時には、ゼロリセットできる。 そこからまた始められる原点だと思いました。

でも、そのときは、まだまだ、たくさん抱え込んでいてゼロではなかったのです。

入院中は、病院のコンビニに商品があっても食べられません。お金があっても、買えるものがない。

動脈に挿入された点滴の栄養補給で生きていて、いつ回復するか、いつまで入院しなければならないか分からない。 チューブが邪魔で風呂には20日も入れない。

病棟のロビーを1日1kmくらい歩きました。 回廊状になっている廊下を1周すると400m。 2周半、点滴スタンドと一緒に歩きました。 30分ほどでポンプのバッテリー切れの警告ブザーが鳴ると、病室に帰らなければなりません。

 

もう少し歩くと病棟を繋ぐ解放廊下。 ここがゼロでした。 ヒトは何もできない。 無力になる場所。

 

できることは、点滴スタンドと一緒に一歩、一歩、歩くだけ。 何も考えないで歩いていると、じきに、期待もなく、不安もなくなって。 不思議なこころの落ち着きがありました。  


上海

2015年08月23日 | 日記

1年半ぶりの上海は、連日曇りか雨、必ず夕立のような大雨が30分くらいありました。

明らかに上海周辺はトラックの通行量が減りました。 都会のインフラ投資はひと段落。 数年前は埃っぽい都市だと思いましたが、少しずつきれいになって落ち着いてきたような気がします。

日本円に対しての中国元は50%くらい高くなって、現金を換金すると1元=20円を超えていました。 日本食料理店で夕食を一人で食べたら1200円くらい。 うどんとおにぎり2個です。 和食を食べにくる中国人は寿司とか刺身とか頼んでましたから、わたしよりRich な感じでした。