

ロード・オブ・ウォーを見てきました。シネコンのあの客席に、私を入れてたった3人の観客でした。
それにしても、戦闘場面はありませんでしたが、すさまじい世界でした。「リベリア船籍」の語でしか知らなかったリベリアという国の病も、かいま見ることができました。
合法と非合法の隙間をかいぐぐってグレーゾーンで兵器商売に徹する男は、問いつめる妻に、儲けが目的で商売をするのではない、と言下に否定し、才能のためだと言い放ちました。なるほど才能ゆえの商売かと、男の言葉を繰り返しながらも、それを理解する脳の回路を、私は持ちあわせていません。理解しがたい世の中の現象を、どうにか説明可能な世界に当てはめて何とか理解したつもりになり、それで安堵してきた私たちにとって、才能の発露としての闇の武器取引があるとは、まったく想像すらできない世界です。
自分の提供する武器によって、国土も、そこに住む無数の人々の心も体も破壊されることに、あくまでも心動かされず、残虐な独裁者の望むまま、ダイヤと引き換えに武器の調達に走る男。車だって、タバコだって、人を殺すことに変わりはないと自己弁護して、ひたすら商売に励む男。
でも、最後に言ってくれました。自分が1年間で取り扱う銃を、合衆国の大統領は1日で売ってしまう。冷戦後の(冷戦前も)各地の紛争に使用される武器はすべて、米・仏・英・露・中という国連安保理常任理事国でつくられている、と。
タミフルでラムズフェルド国防長官が大もうけしたとか、タミフル騒動の背後にいるのはウォルフォヴィッツ国防副長官だとか、鳥インフルエンザ問題を必要以上にあおり立てているのが「世界の黒幕」のひとり、現在の欧米国際金融資本の秘密会議、ビルダーバーグの現議長エティエンヌ・ダヴィニオン子爵だとかいわれていますが、彼等も、私たちの思考回路では理解できないような動機で、結果として大もうけしているのでしょうか。
それにしても、アフリカの貧困、いつまでたっても解決に至らないのはなぜでしょう。抗争で武器を手にしていがみ合う前に、もっと人の持つ力と知恵を、普通の生の営みに使えないものでしょうか。あのおぞましいほどの生の現実を見ると、そんな普通の生活を営む文化も伝統も、どこかで断ち切られてしまったような気がします。
ほとんどゼロから、いえ、銃や戦車で蹂躙されて荒廃しきった国土では、マイナスから出発して、文化と伝統のひとつひとつを積み上げ、築き直していく必要があるのかもしれません。その気の遠ささに耐えられず、つい武器を手に取る、そんなことを考えてしまいました。
冷戦終結後の紛争勃発地域のひとつ、ブラックアフリカは、私たちにとっては、いわゆる帝国主義の時代に突如としてあらわれてきた世界です。でもほんとうはそれ以前から人々が歴史を刻んできたはずなのです。何しろ、最古の人類の生まれた地なのですから。1985年に発刊されたアナール派マルク・フェローの著書『新しい世界史』は、書名だけは新しい○○、と似ていますが、編集姿勢はまったく違います。世界史の埒外におかれた民族の歴史を追求するこの本をもういちど紐解いてみようかしら。なにか、アフリカの理解に繋がるヒントがあるかもしれない、などと思っています。
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とむ丸さんの知性溢れる記事を楽しみにしております。来年もどうぞよろしくお願いします。
新しい世界史、は面白そうですね。探してみます。
才能で兵器を売り買いするってのは、まあ言い訳ですかね。たとえば軍隊に入って、うまく銃器を使い、標的をやっつけるのに才能を発揮する、ってのもあるでしょうし、結局は自分という存在を何に向けて働かせるか、ですからね。悪魔に魅入られた能力は「手腕」とでも言いましょうか。言葉はともかく、現世に迎合していく上で悪魔とつかず離れずで居ることは、ときには甘い汁とともに生きられる条件になります。その誘惑をいかに突き放すかは、自分の生き方の問題だと思います。「つい武器を取る」のも大きな誘惑ですね。昔「セブン」とかいう映画がありましたし、人間の悪への耽溺、あるいは転落はすぐ傍らにある、ということを思い出させます。気の遠くなる未来への道は、本当なら私たちすべての目前に在りますね。
luxemburgさん、ベルリンの兵器ショー、すごかったですね。戦車の上でポーズをとっていた女性たちのセクシー度が、戦争のいかがわしさの象徴のようでした。
コウトさん、字幕では「才能」となっていましたが、言語ではどういう言葉が使われたのかな、とちょっと気になっています。goodまでは聞き取れたのですが。
「気の遠くなる未来への道は、本当なら私たちすべての目前に在りますね。」というのは私もそう思います。ただ、それを気にせずとも何とか生きてゆけるから、忘れてしまうのですよね。
僕はずいぶん前からそれにこだわってきた過去があります。そのこだわりがよかったかどうかは別として今思うことは、自分がそのまん前に立ったらどうだろう、ということです。比喩的にいうならば、アフリカに出かけていって自ら銃口の前で生きてみたらどうだ、ということです。もちろん自由は束縛され、食物は不足し、満足な生活はできない。けれど、自分がその場にいれば、同じ境遇で生きる多くの人間たちの思い、感覚はわかるでしょう。決してテレビやなにかの一場面だけの現実ではなくなり、目の前にある本当の世界の中で自分の五感を震わせつつ生きることになります。
これは、疑似体験として例えばはやりのコンピュータゲームをする(架空の現実中でプレイヤーが主人公になるような)のと違い、まさに自分の存在そのものが一瞬一瞬試されるということです。今僕はアフリカに居ませんが、程度こそ違え、先行きに不安や恐れを感じながら毎日を生きています。アフリカの片隅で日々の食べ物さえ事欠く人々に、なにかをしてあげたくともできない無力感とともにいます。この社会が物質的には満たされながらあまたの不幸とともにあることにも、いらだちを通り過ぎて諦観に近い心になってもいます。そんな自分にとって、世界のどこの出来事であっても、人間の尊厳を脅かす行いはすべて、自分への潜在的な暴力となります。明日はその現実が自分に降りかかるかも知れない。そうでなくとも、アフリカで痛めつけられている人たちの苦しみを、もしも思いやったらどうでしょうか。本当に人の痛みが感じられたら、耐えられません。だから、仕方ない、として冷たく忘れてしまうことしかできません。
長くなりました。真ん中に立つ、というのは、常に自分を確かめる、と言い換えます。今日自分がしなかったことで自分は楽をした。でもその分、明日はやってみよう、なぜなら世界のどこかで今も、誰にも支えてもらえず必死に生きている人たちがいるから。なにも手助けできなくとも、一生懸命生きていれば、いつか何かを届けられる、いや、そう考えて生きる自分自身のためになるから。
毎日真ん中に立つことはできません。自分の愚かさにやられて、目が見えなくなることばかりです。でも、ときどきはっと目を覚まします。そして思います、同じことを。
乱文でわかりにくい文章をご勘弁ください。
毎日どころか、現実にまん中に絶つことが不可能だとしたら、私たちは想像力を使って相手の心情を己の中に取り入れるより仕方ないですよね。
でも、その想像力さえ及ばないことがこの世の中には多いのだと思います。
以前の記事で書いたのですが、知り合いの高校生が、ナショナリスティックな言説に煽られて、「国のためなら僕は死ねる」と豪語しました。でも直後の不注意で何針か縫う怪我を手に受けたとき、そりゃあ、大騒動でした。完全に想像力の欠如ですよ。
何もないところには、想像力さえ生まれないと思います。やはり、相手のことを知りたい、理解したい、という気持ちと行動が必要なのでしょうね。これは自戒も込めて、私自身も心がけねばならないことです。
コウトさんの若さと感性を、自分の鏡にもしたいと思います。
>想像力さえ及ばないことがこの世の中には多い
そうですね。想像できません。ですから、自分から心を開いていくしかないのだと思います。
高校生のお知り合いは、どういった経緯でナショナリスティックな言動をしたんでしょうね。もともと多くの人たちのことを愛していたんでしょうか。死ねる、というのは究極の自己犠牲ですが、それによって得るもの、失うものを考えてみることも大事ですね。自分の一時の思いだけで死んでしまったら、もっと大切なことがすべて果たせなくなります。それでもいいのか。戦時中に特攻した多くの若者には選択の余地がなかった。今現在の日本では、ほとんどどんな生き方でも可能です。もしも本当に人を愛しての行動なら、死地へ赴くより他に何万通りの行動をすることができる。それをせずに簡単な英雄的行為を賛美するのは誤りです。なぜ、それほど安易な道しかとれないか。やはり甘えているからだと思うのです。どこまでいっても自分が可愛いのが人間、それがゆえに人を愛することが自分のわがままと同じになってしまう。それではいけないんですね。自分自身も、もちろん多くの人から愛されて育ってきたこと、そのおかげで今在ること、その大事ないのちをいかに輝かせるかを、じっくりしっかり考えてから、死ねるなら死んでいけばいい。あ、これは余分ですね。笑
長々と本当にすみません。
ひとことで言うと、その競争社会、つまり生き残りのために必要とされている条件を、いかに捉え直していけるかが一番大事な部分だと思います。
他人を思いやる余裕も持てぬくらい必死に努力し続けていかねばならない現実は確かにあるのです。その中でただ追いかけられ、逃げるが勝ちとばかりに蜘蛛の糸をよじ登ることが、果たして唯一の道なのかどうか。死ねる、は少年の思い描いた理想の自己でしかなかったようですが、なにも死ななくとも、大変な努力を通じて愛する人々に報いる道だってあるはずです。
負け組という概念が及ぼす悪影響をいちどよくよく考えてみなければいけない気がします。競争に勝った成功者に奉仕する、といった関係に愛は芽生えないでしょう。お互いの価値を十分に認め合える社会でなければ、常に緊張を抱える不安定な世の中に陥るのは、しごく当然なのです。ところでさっき、女王の教室というテレビドラマの総集編を少し見てました。まるきり同じテーマに思えるのですが。笑 はたしてどういう結末なんだか。じっくり見たいけれども、のんびりしてたらダメだぞと、心の中で声がします。^^;