山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

諏訪山城②

2018-01-04 12:22:12 | 山城ー野州
曲輪3からの南方下の曲輪群

諏訪山城の同一尾根に「諏訪山北の要塞」として新発見された山城があると紹介されている「栃木県の中世城郭」というHPがあります。これは驚きで近日、出かけようと思っております。縄張り図は許可を得てから掲載します


曲輪3の南西にある壕道

曲輪4

曲輪7

曲輪7の南側

曲輪9、沢が西に在り水の手曲輪と思います。


縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、曲輪7から9へ下り


曲輪9を南に進むと、深い堀切になります。

縄張り図のように、東側の空堀は曲輪11の東下まで伸びています。とても壮観です。

曲輪9からの堀切は二重堀切です。これを東下に竪堀を下れば無量寿院です。

余湖さんはこの堀切の先、南尾根を進まなかったようですが、しつこい私はこの先に進んでみました。やはり南尾根曲輪群が待ち受けていましたが次回とします。

宇都宮国綱

没年:慶長12.11.22(1608.1.9)
生年:永禄11(1568)
安土桃山時代の武将。広綱と常陸国佐竹義昭の娘南呂院の子。幼名伊勢寿丸。従四位下。下野守,木工頭,侍従を歴任。天正6(1578)年に父より家督を継承。下野北東部の那須氏,下総の結城氏,常陸の佐竹氏らと盟約を結び,小田原北条氏の北関東進出に対抗した。しかし北条氏の攻勢のなかで,天正13年8月本拠を平城の宇都宮城から堅固な山城の多気山城に移さざるを得なかった。天正18年の小田原攻めでは豊臣秀吉の下に参陣し,本領を安堵された。ところが,秀吉の部将浅野長政の子を養子にとの申し出を拒否して長政と対立し,慶長2(1597)年には秀吉の命で改易に処せられた。国綱は,「何方へも罷り越し,主(主君)取り」してもよいといって家臣を思いやった。その後も朝鮮出兵での戦功により再興を期すが,秀吉の死によってかなわず,武蔵の石浜で没したという。なお没した日を12月22日(1608年2月8日)とする説もある。朝日日本歴史人物事典より

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。