山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)⑥

2016-11-02 20:56:07 | 歴史資料
志賀城の戦い
小田井原、碓氷峠の合戦に大勝した武田勢は、討取った首三千を、志賀城の前面にさらして、城兵に示したので、上杉勢主力の惨敗を知り孤立無援に陥った城兵は志気阻喪し、戦意を失い脱走する者も多かったものと思われる。また武田勢も、首を城外にさらして降伏を迫ったが。笠原、高田両将は聞き入れようとしなかったため、怒った晴信は徹底攻撃を命じる。
 勝ちに乗じた武田方は強攻また強攻、十日正午から総攻撃を開始し、南麓にある曲輪を攻め落とし、その夜半十二時から午前二時の間に、夜襲を仕掛けて頂上の二の丸を奪取し、十一日の正午には遂に本丸を占領する。佐久の豪族依田の主従、高田憲頼父子、笠原清繁父子、その家老平六左衛門尉兄弟八人と以下三百の城兵を討取ったとある。
 「妙法寺記」は次のように伝えている。志賀城主笠原清繁は城外で戦死しており(志賀城の南にある田んぼにお墓が今でも存在しています。上州の高田憲頼父子、依田一族、笠原城の将兵の大半は戦死した。捕えられた笠原夫人は笠原一族の女・子供百人余りは競売にされ、美人の笠原夫人は郡内領主の小山田信有が二十貫で買い求めて、甲斐の岩殿城の駒場の館に伴い寵愛した。親類縁者など身寄りのないものは黒川金山に送られ、遊女や下男下女にされ、奴隷のように扱われたとある。反抗者の見せしめとして残酷無残にも報復が加えられたが、その冷酷な仕打ちに対し、佐久の人々に深い遺恨を残すことになる。
 天文十六年八月十一日志賀城は遂に陥落したが、続いて武田勢は内山峠を越えて上州へ侵入し、下仁田の西牧・小坂の属城を蹂躙した。また和田記には「天文十八年八月十八日巳の刻、武田信玄は急に甲府を発ち、当寺降参した上州の先手を案内人として兵を進め、甘楽郡南牧を押し通り、同郡八木連まで焼き払う。」とあり、志賀城を落としてから、その余勢をかって高田の本拠に進撃したのである。下仁田の小坂小学校のある字春日田に春日田城址があり、別に匿久保の城とも呼ばれているが、高田小次郎憲頼は志賀城を脱出して属城であるこの城で敗死されたとも伝えられている。真偽は不明である。

下仁田 小坂周辺地図
小坂小を地図では小坂社会体育館としています。
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