山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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長野原城⑤

2017-04-23 11:39:21 | 山城ー上州
二の丸から本丸へ


左下の曲輪2へ

曲輪2

宮坂氏の縄張り図に順じておりますが、曲輪2を私は本丸と思います。

曲輪2の西虎口

曲輪2も南側に土塁を成しています。

土塁を東に視点を転ずれば曲輪1です。

碑が建てられています。

前回記事での通り、斎藤氏と真田氏との城の攻防が書かれています。

曲輪2は北側にも展開しています。

北から南土塁を見ています。

碑の曲輪1から東尾根が伸びていて

二重堀切があり、曲輪9の城壁が見えていますが次回とします。


長野原役場から東に1kmくらいに諏訪神社があります。

この神社付近に常田新六郎が長野原合戦の時に陣を置いたそうです。

斎藤憲広について
斎藤憲広は上杉氏に属して勢力を拡大したが、郡内の豪族羽尾氏と鎌原氏(三原庄)の領地争いに介入(羽尾氏に味方)したことで、両氏の仲介に入っていた信濃国小県郡の真田氏、および真田家の主家である甲斐の武田氏による介入を招くことになる(羽尾氏・鎌原氏・真田氏は共に海野氏系で近い関係にある)。永禄3年(1561年)に鎌原幸重が武田家の信濃先方衆である真田幸隆を介して武田家に臣従して、武田氏の後ろ盾を得る。それに対して、永禄五年(1562年)に斎藤憲広は羽尾幸世など羽尾氏と共に鎌原城を攻略し、鎌原氏を信濃に追い払う事に成功する。しかし、程なく鎌原城を奪回されるなど真田勢の攻勢を受け、永禄6年(1563年)には家臣の内応もあって落城、憲行は越後に逃走した。斎藤氏は憲行の末子・城虎丸が近隣の嶽山城に篭っていたが、永禄8年(1565年)に落城、斎藤氏の勢力は駆逐された。
斎藤氏滅亡によって武田氏の領国支配下に入り、武田家郡代として真田氏が岩櫃城主となり、吾妻郡支配の中心的役割を担うようになっていった。 そして沼田城が真田氏に攻略されると、その支城として扱われた。武田勝頼が織田信長によって新府城を追われた(甲州征伐)ときに真田昌幸は勝頼に逃れてくるよう奨めたが叶わず武田氏は滅亡する。その後も真田氏は生き延び豊臣秀吉に属し大名として存続した。江戸時代、徳川氏の時代になると、真田氏もその傘下となる。徳川幕府の一国一城令により、慶長19年(1614年)に廃棄された ウィキペディアより




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