山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

竜ケ崎城②

2017-06-28 20:00:37 | 山城ー信州
本丸へ


本丸南虎口



本丸、残念ながら草が繁茂しています。冬であれば比較的見ることができると思います。

北東の辰野町市街







本丸北西の連続堀切


北尾根を進み、土橋

浅い堀切、奥に瘤。直もこの先に曲輪があったようですが見逃してしまいました。

縄張り図は「信濃の山城と館5」伊那編 宮坂武男氏著

俯瞰図も同様です。左手の池上寺から登ってきました。

次回 長野県岡谷市 花岡城

藤沢頼親②
天文13年(1545年)には高継の調略で武田方から離反し、10月29日には再び福与城には攻められている。信濃守護で義兄にあたる筑摩郡の小笠原長時と結んで抵抗するが、翌天文14年4月には高遠合戦で高遠城を攻略した武田方が福与城を囲み、同年6月10日には和睦が成立し、武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を受けると弟の権次郎を人質に降伏し、生島足島神社に起請文を提出し信友の傘下に配せられた。以後、武田との関係は穴山氏を通じており、天文17年(1549年)には上田原の戦いにおける武田方の敗北を機に小笠原氏と結び再び武田氏から離反するが、信友を通じて武田に降っている。
天文23年(1555年)、小笠原氏とともに上洛し三好長慶に仕えたという。長慶の没後に旧領箕輪に帰り、田中城を築いて居城とした。天正10年(1582年)に武田勝頼、織田信長が相次いで滅ぶと、天正壬午の乱では北条氏直に属することを企図するが、徳川家康に属する保科正直に攻められ、田中城で息子の頼広とともに自害した。ウィキペディアより


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