山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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西城(烏帽子形城)③

2017-08-23 21:07:38 | 山城ー信州
二の丸・本丸から東尾根を下ります。

二の丸の城壁を登り

二の丸から本丸の城壁を見ています。

本丸から二の丸を見下ろしています。

本丸

縄張り図は「信濃の山城と館3」北は左手、東尾根は図の上に伸びた尾根です。

東尾根第一腰曲輪

第二腰曲輪

第三腰曲輪

第四腰曲輪

第五腰曲輪

第六腰曲輪

東尾根堀切

東尾根途中まで次回とします。

第一次上田合戦
翌天正11年(1583年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。
天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。
徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。
閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる[注釈 1]。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。
合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されている。この戦いで昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。
真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数ヶ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。
上田市立博物館には、神川合戦の合戦図が所蔵されている。
なお、この上田合戦に連動して天正13年(1585年)9月から天正14年(1586年)5月まで間、沼田城にも北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていたが、昌幸の叔父にあたる城代矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退に成功している。  ウィキペディアより」


上田合戦はとかく上田城を中心に書かれていますが、真田氏の支配下にある青木村の諸城まで家康は潰しに手を打ってきたことが伺われます


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