山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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有賀城②

2017-07-16 10:26:26 | 山城ー信州
曲輪2・3・4・5へ


副曲輪(曲輪2)を見下ろしています。


曲輪2を西から見ています。

曲輪2の南下、横堀と竪堀が組み合わされています。南側の移動は縦横無尽です。

曲輪2から曲輪3を見下ろしています。

曲輪3

曲輪4を曲輪3から見下ろしています。

曲輪4

曲輪5を見下ろしています。

曲輪5を西から見ています。

有賀泰時、諏訪頼重家臣であったが高遠頼継が武田氏に反抗の兵を挙げたときに武田氏につく。
高遠頼継について
戦国期に甲斐国守護武田氏と信濃諏訪郡の諏訪氏は同盟関係を結んでいたが、天文10年(1542年)6月に武田氏では武田晴信(信玄)が当主になると、晴信は信濃侵攻を本格化させ、諏訪氏との同盟を破棄して諏訪郡へ侵攻する。翌天文11年7月2日、頼継は武田氏の諏訪侵攻に与し、諏訪頼重の本拠上原城(長野県諏訪市)へ侵攻する。頼重は武田方に降伏すると同年7月に甲府へ護送され自刃する(『高白斎記』『守矢頼真書留』)。諏訪領は宮川を境に武田氏と分割され頼継は西半分を支配していたが、諏訪氏惣領を志向する頼継は伊那郡福与城の藤沢頼親らと武田領へ侵攻する。しかし同年9月25日には宮川の戦いにおいて武田方に敗退し、諏訪から退去した(『高白斎記』)。
武田方はさらに伊那の藤沢頼親や小県郡長窪城の大井貞隆らを攻め、天文14年(1545年)4月17日には高遠城も落城し(高遠合戦)、頼継も武田方に降伏し、甲府へ出仕する(『高白斎記』)。高遠城はその後武田氏により改修され、信濃支配における拠点となる。天文17年(1548年)2月14日、武田方は小県郡の村上義清との上田原の戦いにおいて敗退すると同年7月に諏訪西方衆が謀反を起こすなど武田の支配領域では動揺が起こるが(『高白斎記』『勝山記』)、頼継は同年4月3日に甲府から高遠城へ帰城している(『高白斎記』)。
その後、再び武田氏に出仕しているが、天文21年(1552年)の下伊那攻めの際に自害させらた。法名は大用普徹大禅定院。それに代わって高遠氏重臣の保科正俊が武田氏に重用されるようになった。 ウィキペディアより
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