曲輪3の支尾根を下って歩き、そして主郭部へ
曲輪3
曲輪3の北側
一段下がって曲輪4
南を振り返って曲輪7・6の城壁を見ています。
曲輪4の西下に土塁によって空堀が受け
土塁から下ると北支尾根第一曲輪
第一曲輪から曲輪4方面を見返しています。
北支尾根第二曲輪
第二曲輪の先端部は谷になり、武者走りの通路によって南に連絡しています。
曲輪3に戻って
縄張り図の曲輪6を見てください。
曲輪6の虎口
曲輪6に入りました。長野原城の特徴は、山の南側部分を残して土塁としています。
長野原城主 常田新六郎(別名隆永)真田幸隆の弟
兄は武田信玄に仕えた真田幸隆で、隆永は常田家に養子として入り、兄と同じく武田信玄に仕えた[2]。永禄5年(1562年)、上杉政虎(輝虎・謙信)に属する斎藤憲広の居城だった上野国長野原城が武田方に落とされると、その城代に任命された。しかし翌年、憲広の反撃にあい、城を落とされ戦死したという。元亀3年(1572年)、上杉氏との合戦で戦死したとも伝わる。
ただ、これらの経歴に関しては不明な点が多く、実情はわからない。武田家臣として『甲陽軍鑑』には隆永の名は散見しており、同書の「信玄代惣人数書上」では信濃先方衆として矢沢家と共に記載されており、隆永は真田家の家臣ではなく、独立した小領主として武田家に認められていたようである[2]。
常田俊綱は息子と言われるが、隆永自身だともいう。
子孫は矢沢氏と同じく真田家の家臣として存続した[ ウィキペディアより
曲輪3
曲輪3の北側
一段下がって曲輪4
南を振り返って曲輪7・6の城壁を見ています。
曲輪4の西下に土塁によって空堀が受け
土塁から下ると北支尾根第一曲輪
第一曲輪から曲輪4方面を見返しています。
北支尾根第二曲輪
第二曲輪の先端部は谷になり、武者走りの通路によって南に連絡しています。
曲輪3に戻って
縄張り図の曲輪6を見てください。
曲輪6の虎口
曲輪6に入りました。長野原城の特徴は、山の南側部分を残して土塁としています。
長野原城主 常田新六郎(別名隆永)真田幸隆の弟
兄は武田信玄に仕えた真田幸隆で、隆永は常田家に養子として入り、兄と同じく武田信玄に仕えた[2]。永禄5年(1562年)、上杉政虎(輝虎・謙信)に属する斎藤憲広の居城だった上野国長野原城が武田方に落とされると、その城代に任命された。しかし翌年、憲広の反撃にあい、城を落とされ戦死したという。元亀3年(1572年)、上杉氏との合戦で戦死したとも伝わる。
ただ、これらの経歴に関しては不明な点が多く、実情はわからない。武田家臣として『甲陽軍鑑』には隆永の名は散見しており、同書の「信玄代惣人数書上」では信濃先方衆として矢沢家と共に記載されており、隆永は真田家の家臣ではなく、独立した小領主として武田家に認められていたようである[2]。
常田俊綱は息子と言われるが、隆永自身だともいう。
子孫は矢沢氏と同じく真田家の家臣として存続した[ ウィキペディアより