山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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妙義山城②

2017-10-09 20:30:45 | 山城ー信州
北東尾根から南東尾根、そして本丸へ


北都尾根第一曲輪

段曲輪

北東尾根は結構急斜面です。

段曲輪と大手

本丸北下曲輪、この曲輪から南東尾根に向かい

南東尾根の大堀切ウ

大堀切を上から見下ろしています。

南東尾根を下り、虎口があります。これをさらに下ってゆけば長興寺に着くようです。

戻って大堀切を間に本丸城壁を見上げています。

本丸南側

この図をよく頭においてください。鉄塔とある先に砦があり、至る心念堂を曲がらず、尾根をまっすぐ進むと、やはり砦があります。宮坂氏の縄張り図には描かれていません。

縄張り図は「信濃の山城と館4」

次回 二つの砦

戦国期の三村氏
中世の信濃争乱

 親綱には数人の男子があり、嫡子親継、次男の親光は、守護小笠原氏と国人一揆が戦った「大塔合戦」に際して一揆方として出陣、兄弟ともに戦死している。
 『大塔合戦記』によれば、三村孫三郎種貞の名が記され、種貞は親継のことと考えられる。この事件における三村氏の進退は、当時、北信濃において三村氏が洗馬郷を本拠とする国人領主として一応の勢力を保っていたことを示している。
 応仁の乱を経て戦国時代になると、信濃も戦乱が止むことなく続き、守護小笠原氏も分裂して一族が互いに争うようになり、その支配力にも翳りがみえてきた。信濃国は南北に長く、戦国時代には北信濃に村上氏、南信濃に木曽氏、そして中信濃は小笠原氏が割拠し、それぞれに国人領主が加担して興亡を繰り返した。
 天文元年(1532)松尾小笠原定基が下条氏を攻めた時、府中小笠原氏は下条氏を支援し合戦が展開された。この争乱に、三村修理大夫家親は小笠原勢に加わり、松尾城攻めに功を立てている。家親のあとは忠親が家督を相続した。
 天文年間、隣国の甲斐では武田晴信が父信虎を駿河に逐って家督を継ぎ、信濃侵略の機をうかがうようになった。小笠原長時、村上義清、諏訪頼重、木曽義康の信濃四将は機先を制して晴信を叩こうと、甲信国境に一万六千の兵を出したが、晴信の兵八千に打ち破られ敗退した。以後、武田氏は信濃進攻を繰り返し、小笠原氏の支配領域は、武田氏によって確実に蚕食されていった。
 天文十七年(1548)七月、小笠原長時が甲斐の武田晴信と雌雄を決した塩尻峠の合戦において、三村駿河守長親は長時に離反して武田方となり、長時大敗の主因を作った。 武家家伝より




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