中央の支尾根を下ります。
東に登って来て大手を進みます。
曲輪7を見下ろしています。反対側が虎口です。
この虎口を登れば主郭部になります。
中央支尾根の曲輪7
縄張り図は「山城探訪 第十九集 上野編」
曲輪7の西下第一曲輪
第一曲輪の城壁を見上げています。
西下第二曲輪
西下第三曲輪
西下第三曲輪から南を見ています。谷の南側が大手として記事①で歩いてきたところです。
曲輪7に戻り、縄張り図の曲輪4を見ています。この曲輪4からも西に支尾根が伸びていますが次回とします。
武家家伝 羽尾氏
戦国時代の関東は小田原の北条氏が、伝統勢力である古河公方、関東管領山内上杉氏らを凌駕して、勢力を拡大した。それに対して、山内上杉憲政を庇護した越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が、永禄三年(1560)に関東に出陣してきた。謙信はみずからのもとに馳せ参じてきた関東諸将の幕紋を記した、『関東関幕注文』を作成した。そのなかの箕輪衆に羽尾修理亮がみえ、同族の大戸氏とともに「ろくれんてん」と記されている。ろくれんてんとは「六連銭」のことであり、羽尾氏が真田氏と同じ家紋を用いていたことが知られる。
こうして、上杉謙信に従った羽尾氏であったが、地理的な関係で同書にある岩下衆(吾妻郡内の国人)の旗頭である岩櫃城主・斎藤越前守と同一行動をとったという。箕輪衆の旗頭は長野業政で、長尾景虎とともに上杉氏を援けて、上野国の箕輪城に拠って甲斐の武田信玄・相模の後北条氏らの侵攻に対抗していた。永禄三年、長尾景虎が上野国に進出してくると、ただちに謙信のもとに参じて上野国の旗頭となった。翌年、景虎が越後に帰ると、武田軍が西上州に侵入してきた。このとき、武田軍の先鋒となったのは羽尾氏と同族の真田幸隆であった。
永禄四年、上杉方として武田軍の上野進出の前に立ちはだかっていた名将長野業政が病没した。業政の死は、西上州進出をめざす武田氏にとっては有利な展開をもたらした。こうして、上州が波乱含みになってきたころ、箕輪衆に属していた羽尾と同族の鎌原氏とが対立を深めていた。両氏は吾妻川をはさんで南北に所領を有しており、対立の原因は領地の境界をめぐるものであった。
羽尾氏は箕輪衆の一員であり、東吾妻の岩下衆とも同じ上杉方ということで親密であった。一方、鎌原氏は、上杉方の羽尾に対抗するため、武田の家臣である真田幸隆を介して、永禄三年春、信州佐久郡平原村で信玄に謁して家臣となっていた。また、羽尾治部入道(幸世)は、永禄三年、弟海野長門守幸光・同能登守輝幸(上原能登守とも)や斎藤越前守と結んで鎌原氏を攻め、同五年に鎌原氏は武田氏から信濃に領地を宛行われて退去した。しかし、その年のうちに武田氏を後楯とした鎌原氏が羽尾氏を駆逐し、蒲原を押さえるようになったという。
羽尾氏を駆逐し、真田幸隆の弟、常田新六郎が長野原城を守っていた。この真田方の長野原城を奪回するために岩櫃城の斎藤氏が兵を向け長野原合戦が起きました。
東に登って来て大手を進みます。
曲輪7を見下ろしています。反対側が虎口です。
この虎口を登れば主郭部になります。
中央支尾根の曲輪7
縄張り図は「山城探訪 第十九集 上野編」
曲輪7の西下第一曲輪
第一曲輪の城壁を見上げています。
西下第二曲輪
西下第三曲輪
西下第三曲輪から南を見ています。谷の南側が大手として記事①で歩いてきたところです。
曲輪7に戻り、縄張り図の曲輪4を見ています。この曲輪4からも西に支尾根が伸びていますが次回とします。
武家家伝 羽尾氏
戦国時代の関東は小田原の北条氏が、伝統勢力である古河公方、関東管領山内上杉氏らを凌駕して、勢力を拡大した。それに対して、山内上杉憲政を庇護した越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が、永禄三年(1560)に関東に出陣してきた。謙信はみずからのもとに馳せ参じてきた関東諸将の幕紋を記した、『関東関幕注文』を作成した。そのなかの箕輪衆に羽尾修理亮がみえ、同族の大戸氏とともに「ろくれんてん」と記されている。ろくれんてんとは「六連銭」のことであり、羽尾氏が真田氏と同じ家紋を用いていたことが知られる。
こうして、上杉謙信に従った羽尾氏であったが、地理的な関係で同書にある岩下衆(吾妻郡内の国人)の旗頭である岩櫃城主・斎藤越前守と同一行動をとったという。箕輪衆の旗頭は長野業政で、長尾景虎とともに上杉氏を援けて、上野国の箕輪城に拠って甲斐の武田信玄・相模の後北条氏らの侵攻に対抗していた。永禄三年、長尾景虎が上野国に進出してくると、ただちに謙信のもとに参じて上野国の旗頭となった。翌年、景虎が越後に帰ると、武田軍が西上州に侵入してきた。このとき、武田軍の先鋒となったのは羽尾氏と同族の真田幸隆であった。
永禄四年、上杉方として武田軍の上野進出の前に立ちはだかっていた名将長野業政が病没した。業政の死は、西上州進出をめざす武田氏にとっては有利な展開をもたらした。こうして、上州が波乱含みになってきたころ、箕輪衆に属していた羽尾と同族の鎌原氏とが対立を深めていた。両氏は吾妻川をはさんで南北に所領を有しており、対立の原因は領地の境界をめぐるものであった。
羽尾氏は箕輪衆の一員であり、東吾妻の岩下衆とも同じ上杉方ということで親密であった。一方、鎌原氏は、上杉方の羽尾に対抗するため、武田の家臣である真田幸隆を介して、永禄三年春、信州佐久郡平原村で信玄に謁して家臣となっていた。また、羽尾治部入道(幸世)は、永禄三年、弟海野長門守幸光・同能登守輝幸(上原能登守とも)や斎藤越前守と結んで鎌原氏を攻め、同五年に鎌原氏は武田氏から信濃に領地を宛行われて退去した。しかし、その年のうちに武田氏を後楯とした鎌原氏が羽尾氏を駆逐し、蒲原を押さえるようになったという。
羽尾氏を駆逐し、真田幸隆の弟、常田新六郎が長野原城を守っていた。この真田方の長野原城を奪回するために岩櫃城の斎藤氏が兵を向け長野原合戦が起きました。