曲輪3へ
前回記事の縄張り図で堀切ク
堀切ケ
東下の腰曲輪
二段目の腰曲輪
曲輪3の城壁を見上げています。
曲輪3
曲輪3の南西下の堀切コ
曲輪3の南西城壁、宮坂氏はここまでで縄張り図は終ります。
さらに南西に歩くと大きな平地があります。
この尾根を南西に登り
土橋があります。和田城はここまで。
次回 中山城
大井氏③
信濃守護代大井氏
その後、大井氏は光長が惣領となったようで、大井光長は信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平五年(1350)信濃国太田荘大倉郷の地頭職について、金沢称名寺と島津宗久跡代官との争いをやめさせ、称名寺の地頭職をまっとうさせるよう足利直義から厳命を受けている。この光長は『四鄰譚薮』にめる光栄に比定されるが、光栄は「大井朝行の甥比田井入道良鑑の子なり」とあり、にわかに同一人物と断定することは危険といえよう。
光長の子光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。応永六年(1399)信濃守護に任ぜられた小笠原長秀は大井光矩を伴って佐久に着き、光矩と信濃支配について相談した。そして、大井氏の館で旅装を整えた長秀は都風に美々しい行列をつくって善光寺に入り信濃統治をはじめた。しかし、国人たちは長秀の統治を承服せず、村上氏らを中心とする国人勢力と小笠原勢は次第に対立を深め、ついに応永七年(1400)九月、両者は川中島篠ノ井付近で大合戦におよんだ。いわゆる「大塔合戦」である。
合戦は国人方の優勢で、小笠原軍はついに敗れて大塔古要害に逃げ込んだ。光矩は守護小笠原氏の一門として微妙な立場に立たされ、中立を保って途中まで事態を静観していたが、小笠原長秀に危険が迫ると両者の間を調停した。これによって、長秀はかろうじて京都に逃げ帰ることができた。しかし、責任をとらされて信濃守護職を罷免されたことはいうまでもない。 武家家伝より
前回記事の縄張り図で堀切ク
堀切ケ
東下の腰曲輪
二段目の腰曲輪
曲輪3の城壁を見上げています。
曲輪3
曲輪3の南西下の堀切コ
曲輪3の南西城壁、宮坂氏はここまでで縄張り図は終ります。
さらに南西に歩くと大きな平地があります。
この尾根を南西に登り
土橋があります。和田城はここまで。
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大井氏③
信濃守護代大井氏
その後、大井氏は光長が惣領となったようで、大井光長は信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平五年(1350)信濃国太田荘大倉郷の地頭職について、金沢称名寺と島津宗久跡代官との争いをやめさせ、称名寺の地頭職をまっとうさせるよう足利直義から厳命を受けている。この光長は『四鄰譚薮』にめる光栄に比定されるが、光栄は「大井朝行の甥比田井入道良鑑の子なり」とあり、にわかに同一人物と断定することは危険といえよう。
光長の子光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。応永六年(1399)信濃守護に任ぜられた小笠原長秀は大井光矩を伴って佐久に着き、光矩と信濃支配について相談した。そして、大井氏の館で旅装を整えた長秀は都風に美々しい行列をつくって善光寺に入り信濃統治をはじめた。しかし、国人たちは長秀の統治を承服せず、村上氏らを中心とする国人勢力と小笠原勢は次第に対立を深め、ついに応永七年(1400)九月、両者は川中島篠ノ井付近で大合戦におよんだ。いわゆる「大塔合戦」である。
合戦は国人方の優勢で、小笠原軍はついに敗れて大塔古要害に逃げ込んだ。光矩は守護小笠原氏の一門として微妙な立場に立たされ、中立を保って途中まで事態を静観していたが、小笠原長秀に危険が迫ると両者の間を調停した。これによって、長秀はかろうじて京都に逃げ帰ることができた。しかし、責任をとらされて信濃守護職を罷免されたことはいうまでもない。 武家家伝より