本丸から東側遺構
大空堀、縄張り図でア
大空堀の東に曲輪3
空堀イ
本丸南下の腰曲輪
縄張り図は「信濃の山城と館」、南は上になります。
本丸南下の腰曲輪に立って、本丸城壁と空堀を間に曲輪3とを見ています。
空堀イの東上の曲輪(宮坂氏は曲輪として番号を振っていません。)曲輪4としておきます。
曲輪4の南下の腰曲輪
曲輪4の東に切岸によって、一段高く曲輪が並びます。(曲輪5 仮に)
曲輪5の北側に堀があって
曲輪5の北に堀を隔てて曲輪6(仮に)、宮坂氏が曲輪4・5・6を縄張りに加えなかった理由が分かりません。
城主 「長野県町村誌」には菅沼阿波守城址とある。「伊那武鑑根元記」に、天文十八年(1549)武田信玄に降伏せず切腹落城としている。しかし、武田氏支配の時代に中沢衆の中に菅沼久兵衛、同次右衛門がいる。武田氏が侵攻してきたときに、上伊那地方の諸氏の抵抗は強く、主だったものは討滅されたが、一族の中には菅沼氏のように残って、武田氏の属して働いた例は多い。「信濃の山城と館」上伊那編より
次回 駒ケ根市 塩田城
大空堀、縄張り図でア
大空堀の東に曲輪3
空堀イ
本丸南下の腰曲輪
縄張り図は「信濃の山城と館」、南は上になります。
本丸南下の腰曲輪に立って、本丸城壁と空堀を間に曲輪3とを見ています。
空堀イの東上の曲輪(宮坂氏は曲輪として番号を振っていません。)曲輪4としておきます。
曲輪4の南下の腰曲輪
曲輪4の東に切岸によって、一段高く曲輪が並びます。(曲輪5 仮に)
曲輪5の北側に堀があって
曲輪5の北に堀を隔てて曲輪6(仮に)、宮坂氏が曲輪4・5・6を縄張りに加えなかった理由が分かりません。
城主 「長野県町村誌」には菅沼阿波守城址とある。「伊那武鑑根元記」に、天文十八年(1549)武田信玄に降伏せず切腹落城としている。しかし、武田氏支配の時代に中沢衆の中に菅沼久兵衛、同次右衛門がいる。武田氏が侵攻してきたときに、上伊那地方の諸氏の抵抗は強く、主だったものは討滅されたが、一族の中には菅沼氏のように残って、武田氏の属して働いた例は多い。「信濃の山城と館」上伊那編より
次回 駒ケ根市 塩田城