山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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小野城③

2017-11-14 11:42:18 | 山城ー野州
北西尾根へ(後日紹介しますが、北東尾根をも新たに見付け歩いています。余湖さんの縄張り図からは離れます。)

本丸西側帯曲輪から北西尾根へ下る虎口

北西尾根を下って振り返って見ています。

北西尾根第一曲輪

第一曲輪の北城壁

北西尾根を下って、第二曲輪

第三曲輪、腰曲輪に空堀をめぐらし、円状の台を形成している不思議な曲輪

帯曲輪下まで戻ってきました。

帯曲輪北に石垣が積まれていました。

次回 新たに見付けた北東尾根へ

小曾根筑前は小野城主、小野高吉を謀殺した長尾顕長の重臣です。

唐沢城老談記15

- 小曾根筑前の諌言 - 


 同年正月二日、足利の本城において、長尾殿が家中に喜びの御盃を下さった。
 長尾殿は家来たちに、
「佐野と足利は取り合いを数年に渡って続けてきたが、大将を虜にするほどのことはなかった。ところが、このたびは宗綱を不思議にも討ち取ることができ、これは後代の誉であり、また、家運長久の基でもある。これほどの喜びはない」と仰せになり、近々出馬して佐野の家来どもを討ち捕らえ、佐野を領地とするだろうと仰せになった。
 各々これをうけたまわり、
「このたびの御勝利は、ひとえにかねてからの御武略の結果と存じたてまつります。関東に城主は多しといえども、小田原、越後、甲州、佐竹の旗下に属していない城主はおりません。しかし、足利・新田の御両家ばかりは、いずれの御旗下にもなっておりません。このうえは、野州、上州までも御手に入れられることでしょう」と申し上げたので、長尾殿は斜めならずお喜びになった。
 御盃は、最初に小曾根筑前に下され、次に豊島七右衛門に下された。これは、宗綱を筑前の手で討ち取ったからである。
 侍大将の江戸豊後だけは何も御挨拶を申し上げなかった。そして、豊後に御盃を下さった時、豊後はそれを頂戴しながらはらはらと涙を流した。
 長尾殿は立腹され、「強敵を討ち取って、皆で喜んでいる時に、豊後がさきほどから憂えたような様子をしているのは不思議の至り。そのほうの縁者が宗綱のもとにいるのか」と、仰せになった。
 豊後はそれをうけたまわり、
「御屋形の仰せとも思えません。親兄弟が別れて戦場に望む時は、かえって互いに恥を知っているゆえに、ひとしお勇んで戦うものです。もし、それがしに縁者を気にするような心があれば、日頃一命を軽んじて忠勤を励んだり、御前にまかり出たりはいたしません。
愚意を申し述べさせていただくと、北条家は北条氏綱公から今の氏直公までは既に五代におよび、御一族も譜代衆も大勢おります。北条家が新田・足利の御両家に懇意にされ、関東にあまたいる城主の中で御両家だけが旗下に入らなくても小田原から御疎略にされていないのは、まったくもって、御両家を大切に思し召しているからではありません。謙信公の御支配と近国無双の強将宗綱公をうるさく思し召し、そのために御両家を立てて御懇意にされているものと思います。宗綱が死んだ上は、氏直公は御気遣いすべき敵がいなくなって、今度は御両家が邪魔になるでしょう。したがって、これからは、御両家を御退治され、親しい御一門御譜代衆を新田・足利・桐生へ差し置こうという御計略を立てることになりましょう」と、申し上げた。
 長尾顕長公は、これを聞いてもってのほかに御立腹され、「そうは言っても、攻めて来た宗綱を討たずにおけるか」と、仰せになった。
 豊後は、
「御敵対の儀については、御退治されることはもっともと存じます。それがしが申したのは、今のように大きな利を得た時は、それを大切にし、免鳥、樺崎、彦間、名草へ敵が寄せて来るのを防ぐよう仰せ付けてこそ、深き御武略ということでございます。信長公、謙信公、信玄公、この三大将は、弓矢の道三五七といって、六の勝ちを得るのにつとめ、様子作法、共によろしき格法です。それで、この三大将は、近ごろ武道の名人と天下に呼ばれているのです。
佐野は天徳寺や山上道及を武者修行に出して留守で、また、家中が不和だったために、今度の御利運となったのです。佐野家中が和していれば、主君をやすやすと討たせたことを口惜しく思い、敵の様子をうかがって身命を惜しまず攻め寄せて来て、必死の敵に対して勝敗はあやういことになります。敵がもしも今、免鳥の城か彦間の要害を攻め落とし、火の手を揚げたとすれば、それは大将の不覚というものではありませんか。宗綱が討たれたもうたのは粗忽な合戦を行ったからで、こちらの運が良かったからであり、また、宗綱の運命が尽きたためでしかありません。浅葉兄弟、小曾根筑前、新井図書、その他の衆中も、それがしの申し上げるところ、理に当たらざる儀があればうけたまわろう。
また、合戦の様子や宗綱を討ち取ったことを、すぐに小田原に使者を遣わして、後ほど委細を報告すると伝えておくべきところなのに、当面の御勝利のみをお喜びになって、将来御家の亡びることを思し召さないのは、なげかわしいことでございます。
『良将は奥に奥有り』と申します。また、古語にも、『遠き思慮無きときは、必ず近き愁いあり』とも申します。小田原は大家であり、関八州に双ぶ者のない城主です。今後、思いも寄らないことが起きた時は、なお親しみを深くし敬ってこそ、御先祖鎌倉権五郎景政公より代々の御家を輝かしたまうことができるのです。災いを薄くし、幸いをなすのが良将の知恵とうけたまわっております。」
 このようにはばかるところもなく申し上げたが、家の亡ぶべき時節が到来したためか、長尾殿は、ついに御納得されることはなかった。そのため、江戸豊後はしばらくして長尾殿のもとを立ち退いてしまった。これを惜しまぬ者はいなかった。 サイト「芝蘭堂」より


「芝蘭堂」さんは古典を現代語訳されて紹介しています。とても勉強になるサイトです。




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