山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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竹ノ城③

2017-01-03 11:50:07 | 山城ー信州
主要曲輪に登ります

②でこの城壁の麓まで歩てきました。四の曲輪です。

登ってきた大手道を見下ろしています。

ごつごつした岩を縫って登ると三の丸、二の丸城壁が聳え立っています。中央が南虎口

三の丸を見下ろしています。

二の丸、本丸城壁が現れます。竹ノ城は標高は低いものの、地形を生かしたなかなかの堅固さを持っています。

本丸

二の丸を見下ろしています。二の丸は実際には南側を幅広く展開しています。

本丸西からの景色

本丸にある説明板

本丸を北から見ています。

本丸北下の第一曲輪

北第二曲輪

本丸城壁を見上げています。

第二曲輪から

北第一堀切

北第三曲輪、この先は断崖

次回 上州藤岡市 真下城


武田氏の信濃侵攻

 十六世紀、信濃国の隣国甲斐では武田信虎が国内統一を実現し、信濃侵略を開始した。その後、信虎は嫡子の晴信に国外追放され、晴信が武田氏の当主となった。晴信は対外的に大きく発展しようとの野望を抱き、その鋭峰は有力な戦国大名にいない信濃に向けられた。
 晴信は天文十一年(1542)隣接する諏訪の諏訪頼重を滅ぼし、伊奈・佐久郡への侵攻作戦を展開した。晴信の信濃攻略の前に立ちはだかったのは小笠原と村上の両氏であったが、小笠原長時は塩尻峠の合戦で武田軍に大敗天文十九年本城を自落した。村上義清は武田氏に抵抗し、武田軍を二度にわたって撃ち破ったが、十年、戸石城は真田幸隆の奇襲によって落ち、二十二年には本拠地坂城を攻略され、ついに義清は越後の長尾景虎(のちの謙信)を頼った。
 永禄二年(1559)信玄は北信濃をほとんど占領し、越後境へ乱入し、翌三年には北信濃支配の拠点として海津城を築いた。信玄によって、北信濃を逐われた村上・井上らの領主らは、旧領回復のため長尾景虎に出馬を依頼した。景虎も信濃の状況に危機感を募らせ、ついに川中島地方の制圧を決意し出兵した。以後、景虎と信玄の間で川中島の戦いが前後五回にわたって繰り返されることになる。
 なかでも永禄四年の戦いは激戦として有名である。同年八月、景虎は一万八千の兵を率いて信濃に出陣、九月十八日、信玄の軍二万と八幡原において激突した。上杉の先陣には村上義清・高梨政頼・井上昌満・須田満親・島津忠直らが名を列ねている。合戦は初めは上杉方の優勢であったが、やがて武田方が盛り返しついに上杉軍は越後へ退去した。この合戦で、もっとも深刻な被害を受けたのは、両軍ともに先陣をつとめさせられた信州侍であった。
 川中島の戦いは戦闘こそ互角であったが、その後も武田氏の信濃経略は着実に進められた。結局、鎌倉時代以来井上氏らが展開した在地支配秩序は根底からくつがえされ、武田氏の大名領国体制に組み込まれてしまったのである 武家家伝より




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