山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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碓氷地方の城について③

2015-12-23 22:11:48 | 歴史資料
『上野誌』安中氏の項

(一)禅宗補陀寺 この寺は山城の跡である。長享元年、越後新発田の住人出羽守忠親が此処に住んでいたという。この山に城を築き小屋城と呼んだ。嫡子伊賀守忠清は入道して角源と号した。その嫡子が安中越前守忠政である。天文十九年三月、信玄松井田城を攻撃。天文二十一年四月、忠政は謙信の先陣を勤めた。弘治三年瓶尻の合戦には西上州衆二万ばかりが、長野信濃守(長野業政)を大将として武田と戦い、甲軍勝利、武田信玄は、永禄二年九月西上州の作毛を刈り、翌三年二月十八日碓氷峠に馬を立てた。(現在も旧18号線沿いに愛宕城址として残っています。)永禄十一年二月十六日、安中左近太夫広盛(忠成で、忠政の嫡男)は力戦及ばずして降参し、父越前守春綱(忠政の事)は小屋城に立て籠もって必死を究め、神成監物らが良く防いだが、左近太夫降参と聞き春綱も降伏を申し出た。その後春綱は切腹し、広盛は本領安堵の上、甘利三郎四郎の妹婿としたという。

愛宕城地図


愛宕城縄張り図 山崎氏作図

補陀寺地図

(二)久昌寺 榎下城の跡である。開基は安中越前守忠正(忠政の事)大永五年、安中忠政が城を築いて松井田小屋城からここに移り榎下城と名付けた。後、野尻へ移った。安中忠政・忠成は野尻の窪庭に居た図書を却け、永禄二年四月、榎下から野尻に移り、宿を安中と改めた。永禄六年安中越前守忠清(忠政の誤り)は武田信玄のために小屋城で切腹、嫡子左近忠成は降参した。三寺尾合戦の大将である。天正三年三月、長篠で討死。

(三)安中越前守忠正 忠正はその後、武田信玄と合戦、永禄十一年二月、松井田小屋にて討死す。法名自天全性禅定門霊位、同郡中秋間村全性寺開基

(四)板鼻並木の戦いの項 永禄三年九月、武田晴信一万余騎を率い信州余地峠から西上州下仁田を越え、松井田、安中原市に着陣、近辺の士に内応を誘ったところ、和田、高山、平井、甘尾等が投降してきた。晴信は箕輪城を攻めようと、東一里の板鼻宿まで押し出してきた。

(五)武田に降参以後の安中氏の項  安中忠成騎馬百八十騎、武田信玄に下り、安中の城の本領をそのまま与えられ甘利左衛門の妹婿になった。忠成は信玄に属し、信濃、美濃の戦いに従軍したが、天正三年、勝頼の長篠合戦に一族雑兵悉く討死した。その後安中氏滅びた。

上野志が安中氏を取り上げた項を取り上げています。断片的ですが、安中氏の戦国期の歴史が読み取れます。また忠政が討死した松井田小屋城は補陀寺のことではなく、現在の松井田城の事と思います。①の記事、松井田城縄張り図を見ると、安中曲輪と記されています。因みに縄張り図、本丸とあるのは大道寺政繁の手によるものです。

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