山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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山田城②

2017-10-30 19:20:56 | 山城ー武州
本丸周辺を詳しく見ます。

本丸も土塁を設けて幾つかに区切っています。

上の写真は、木があるところの土塁でこの写真の本丸を分けています。

本丸西側の土塁

西土塁の外側

西中央虎口

南に向かって武者走りを歩き

南西虎口

虎口の上に、飾りのような土塁が付いています。

南西虎口から南へ廻っていきます。空堀を駆使して守っています。

南側の空堀と外曲輪、土塁が外側にもあり曲輪です。本丸にある縄張り図は本丸を描いたもので、実際は本丸周辺にも曲輪が配されています。

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より

次回 山崎城(森林公園の花木園周辺)

成田氏について
「成田(氏)系図」によると、助隆・助広・助綱と続く。助綱の弟・助忠は源義経に従って功績を得ている。助綱の嫡子・資泰は承久の乱における宇治川合戦で戦死してしまい、嫡子・忠綱が幼少のため、助綱の弟・家助が助綱の養子となって忠綱の補佐を行ったという。[3]
鎌倉幕府滅亡とともに、成田助隆の子孫とみられる秀綱・家綱は所領を没収された。これにより鎌倉幕府御家人の成田一族は没落した[3]。『鹿角市史』[要文献特定詳細情報]によれば、郎左衛門尉家綱は子息とみられる四郎太郎秀綱とともに鎌倉幕府滅亡の際、北条氏と命運を共にしたという。代わって成田氏を継承したのは武蔵七党の一つ丹党の安保氏である。
安保氏は、安保実員の庶子・信員が成田家資(「成田系図」上での家助)の娘を娶(めと)って成田氏と姻戚関係になっており、信員の孫・行員が祖母を通じて成田氏の所領を継承していた。行員の子・基員は成田氏を名乗り、基員からその子・泰員への継承時には成田氏本領である成田郷も所有している。このため、安保氏庶流の一族が姻戚関係によって没落した御家人成田氏の領地や名跡を継承していったとみられ、成田系図上は鎌倉期から一貫して続いている戦国時代の忍城主成田氏は、実は安保氏系だと考えられている[6]。泰員は白旗一揆に参加するなどしているが、応永2年(1395年)に播磨国須富荘北方[注釈 2]を祇園社へ寄進した記録以降、成田氏の活動は見えなくなる。[3]
成田氏の菩提寺たる龍淵寺の開祖とされるのが成田五郎家時で、中興の祖と伝わる。後世の軍記では家時の嫡男は早世し、次子で跡を継いだ資員は暗愚であったといい、資員の子・顕泰が幼くして継いだという。しかし家時や資員の名は後世史料にしかみえず、同時代史料では確認できない。[3]
室町時代後期(戦国時代)に山内上杉家の家臣として活躍した成田顕泰またはその子・成田親泰は、児玉氏、忍氏などを滅ぼすなど勢力を広げ、忍城を中心に成田氏の最盛期を演出した。しかし上杉顕定の死後の上杉家家督争いで上杉顕実に味方して敗れ、勢力を衰退させた。顕泰の孫の成田長泰は弱体化した山内上杉氏を見限り後北条氏、ついで上杉謙信に仕えたが、謙信の不興を買ったため再び後北条氏に寝返るなどめまぐるしい動きを見せた。長泰の子の成田氏長の代には小田原征伐で後北条氏に味方し、一時所領を失った(忍城の戦い)。だが氏長の娘甲斐姫が豊臣秀吉の側室として寵愛を受けるなどの幸運にも恵まれ、大名として返り咲き下野国烏山を領した。氏長の跡は弟の成田泰親が家督を継承し関ヶ原の戦いの後は徳川氏に属したが、その子の代に後継者争いが起きたため改易となった。子孫は御家人、次いで旗本となった。
なお、室町時代後期から戦国時代初期の成田氏に関しては近年の研究により、「成田系図」記載の生没年が同時代史料にみえる成田当主の名と合わないと指摘され、実名の比定が成田系図によっていた顕泰・親泰の頃の業績にずれがあるとする説が出されている。[3]
忍城築城主は、築城年代が忍周辺の領主が岩松氏から成田氏に代わった文明年間と考えられ、「成田系図」生没年から推測して顕泰の築城とされたが、同時代史料の「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」から文明11年(1479年)時点で忍城は存在したと指摘され、築城はその前になるため築城主は抄録にみえる顕泰の養父・正等とする説が提示された。 没年に関しても、顕泰の没年は成田系図での没年・天文16年(1547年)ではなく、系図で親泰の没年とされる大永4年(1524年)で、その親泰の本来の没年は天文14年(1545年)とする説もある。ウィキペディアより






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