山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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稲積城②

2017-10-22 20:21:20 | 山城ー野州
稲積神社周辺を歩きます。

この丘城は那須余一が関係した城であるようです。

稲積神社

本殿、笹曲輪のように見えます。

本殿裏の岩

南虎口

虎口を出て、南に矢場とされる土塁

矢場から南50mほどにある祠、ここに本丸があったのではないかと推測します。

外城と下館とを隔てる土塁

外城はこんなに広大です。これが曲輪であるなら、どれほどの兵を養っていたのか、少し信じがたい広さです。

那須与一について
『平家物語』や『源平盛衰記』に伝えるところが大きい[4]。『平家物語』の記述から逆算すると、嘉応元年(1169年)・永万2年/仁安元年(1166年)・仁安3年1168年)頃、那須資隆の子として誕生した。誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されることが多い。
『平家物語絵巻』巻十一より屋島の戦い「扇の的」
治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、頼朝より5カ国に荘園を賜った[5]。また、為隆を除く9人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆も後に罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。
死亡時期は諸説[6]あるが山城国伏見において死去。家督は兄・五郎資之(之隆)が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の子[7]・頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が、建久4年(1193年)に源頼朝の那須巻狩の際に饗応役を務めた(『吾妻鏡』による)光資である。ウィキペディアより

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