二の丸南曲輪から本丸へ
南に廻って
本丸と鬼怒川との間の二の丸南曲輪
鬼怒川
二の丸と本丸との空堀
本丸西虎口にある説明板
西虎口(搦め手)
本丸土塁と二の丸との空堀(季節外れの桜ですが、撮りためてあった写真ですのであしからず。)
本丸西土塁の上を歩いています。
二の丸との空堀を見下ろしています。どこもかしこも絵になる城址です。
本丸北側の土塁
北側土塁上から本丸を見下ろしています。
次回 三の丸から本丸へ
氏家氏は宇都宮氏から分かれた一族で、美濃に所領を得て美濃三人衆氏家卜全はこの栃木の氏家氏を阻としています。
氏家卜全(直元)
はじめ美濃国守護の土岐頼芸の家臣として仕えたが、斎藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕えた。道三死後もその子・義龍、龍興に仕えたが、龍興とは折り合いが悪かったとされており、稲葉良通や安藤守就と共に永禄10年(1567年)、織田信長の稲葉山城攻めにおいて内応し、以後は織田氏の家臣として仕えた。なお、この頃に卜全と号した。
信長上洛の際にはこれに従った。また、永禄12年(1569年)の北畠具教が籠城する大河内城攻めや、元亀元年(1570年)の姉川の戦いなどにも参加して活躍した。
元亀2年(1571年)の伊勢国長島攻めで柴田勝家に従軍し、織田軍が撤退する際に殿軍を務めたが、5月12日に美濃石津で本願寺勢力と共に織田軍に抵抗していた六角一族の佐々木祐成に討ち取られた。享年38とされるが、『美濃国諸旧記』には59歳で死去したと書かれている。岐阜県海津市南濃町安江に「卜全塚」という供養塔がある。 ウィキペディアより
南に廻って
本丸と鬼怒川との間の二の丸南曲輪
鬼怒川
二の丸と本丸との空堀
本丸西虎口にある説明板
西虎口(搦め手)
本丸土塁と二の丸との空堀(季節外れの桜ですが、撮りためてあった写真ですのであしからず。)
本丸西土塁の上を歩いています。
二の丸との空堀を見下ろしています。どこもかしこも絵になる城址です。
本丸北側の土塁
北側土塁上から本丸を見下ろしています。
次回 三の丸から本丸へ
氏家氏は宇都宮氏から分かれた一族で、美濃に所領を得て美濃三人衆氏家卜全はこの栃木の氏家氏を阻としています。
氏家卜全(直元)
はじめ美濃国守護の土岐頼芸の家臣として仕えたが、斎藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕えた。道三死後もその子・義龍、龍興に仕えたが、龍興とは折り合いが悪かったとされており、稲葉良通や安藤守就と共に永禄10年(1567年)、織田信長の稲葉山城攻めにおいて内応し、以後は織田氏の家臣として仕えた。なお、この頃に卜全と号した。
信長上洛の際にはこれに従った。また、永禄12年(1569年)の北畠具教が籠城する大河内城攻めや、元亀元年(1570年)の姉川の戦いなどにも参加して活躍した。
元亀2年(1571年)の伊勢国長島攻めで柴田勝家に従軍し、織田軍が撤退する際に殿軍を務めたが、5月12日に美濃石津で本願寺勢力と共に織田軍に抵抗していた六角一族の佐々木祐成に討ち取られた。享年38とされるが、『美濃国諸旧記』には59歳で死去したと書かれている。岐阜県海津市南濃町安江に「卜全塚」という供養塔がある。 ウィキペディアより