山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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埴原城⑤

2017-06-15 21:00:11 | 山城ー信州
北尾根を歩きます。

北尾根の入り口の大堀切を見返しています。

段曲輪

北尾根第一曲輪

第一曲輪から北尾根を見返しています。

第二曲輪

第三曲輪

第四曲輪

第五・第六曲輪

第二堀切

第二堀切の東竪堀

第七曲輪(これが西小屋でしょうか)

第七曲輪の西空堀

第七曲輪の北腰曲輪

北尾根段曲輪

第八・第九・第十曲輪

第十一曲輪

北尾根先端部の空堀、北尾根だけでもこれだけの縄張りです。恐らく国人村井氏だけでなく、小笠原一族が城主として入っていたのではないかと推測します。

次回 北尾根第七曲輪の西北支尾根と主郭部へ

小笠原長時
信濃隣国の甲斐国では小笠原氏と同じ甲斐源氏の一族である守護武田氏により国内統一がなされ、長時と同じ年に家督を相続した武田晴信(信玄)は信濃侵攻を開始する。天文14年(1545年)に晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、4月17日に武田勢は頼継の高遠城を陥落させる。さらに長時の娘婿でもある福与城の頼親を攻めると、長時は北方の龍ヶ崎城(辰野町)において武田方に対抗する(「小平物語」)。武田勢は甲斐や今川・北条の援軍を得て同年6月1日には武田家臣板垣信方の軍勢が龍ヶ崎城を陥落させ、長時は敗退している(『高白斎記』)。長時は弓馬に優れた勇猛な武将であったが、部下を統率する能力は芳しくなかったという[2]
武田勢は伊那を制圧すると佐久侵攻を進め、小県郡の有力国衆である村上義清と対立する。天文17年(1548年)2月には小県郡上田原の戦いで義清は武田勢を撃破し(『高白斎記』『勝山記』)、長時は同年4月に村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻する(「神使御頭之日記」)。さらに6月にも諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻を行い(「神使御頭之日記」)、6月19日に塩尻峠へ進撃するが武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。
天文19年(1550年)7月15日には本拠の林城も失い、信濃小笠原氏は没落した(『高白斎記』)。同年には代々室町幕府の奉公衆であった同族である京都小笠原氏の小笠原稙盛(秀清の父)を介して将軍足利義輝に太刀・馬を献上しており、信濃国衆に対する下知を約束されている。没落後の長時は中塔城の二木氏を頼り越後へ逃れたとも(「二木家記」)あるいは実弟である鈴岡城の小笠原信定のもとへ逃れたとも言われるが(「笠系体成」)、以後の正確な動向は不明。ウィキペディアより



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