山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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釈尊寺西城

2017-05-20 18:59:10 | 山城ー信州
楽厳寺城だけでは混乱すると思い、尾根の位置によって城の名を便宜的につけています。
釈尊寺西城は楽厳寺西城の北に位置する尾根にあります。

楽山寺西城の本丸(薫風山荘の北尾根)

本丸から北尾根に下ります。腰曲輪が三段ほど構築されています。

尾根を下って来て、段曲輪が数段とあります。

鞍部に出て、尾根から東側には大きな平地が三段とあります。

鞍部の尾根には、東側に土塁を設けて南北30m東西20mの曲輪があります。(中曲輪)

東斜面には幾つもの段曲輪によって守っています。

段曲輪から尾根を見ています。

尾根を北に登ってゆきます。中央に虎口があります。

圧倒する大きな堀切が行く手を阻んでいます。ここから主郭部となりますが次回とします。

村上義清と父顕国(あきくに)

文亀元年(1501年)3月11日、村上顕国の子として葛尾城に生まれる。
永正12年(1515年)3月15日、元服し、右京権亮を称し、諱を義清とす。尤も、父の顕国は支配下にあった小川氏が背いたため隣接地の高坂氏と大日方氏にこれを討たせたと伝えられるが、他の事蹟が明確ではなく、このため家督継承前後の義清の動静も明確ではない。
永正13年(1516年)3月、従五位下に叙位。佐渡守に任官。
永正14年(1517年)に、父より葛尾城を譲られ、永正17年(1520年)に病没した父の後を受けて家督を相続し、当主になった。一方、父の顕国が死去したのは大永6年(1526年)という説もある。


横尾氏には「長享日記」が遺されていて、横尾丹波守信光は(我が先祖)、京都禁裏御付武士として勤めていたが長享二年(1488)「甲州の武田氏が、信州を奪おうとする不穏な動きをしているから至急帰国するように。」という村上顕国からの催促状が届いたので、「将軍足利義尚の許可を得て、采地横尾(信州真田町)に下って村上顕国に属し、佐久小県郡で武田軍と戦い軍功をあらわした。」とある。
1488年(長享二年)には武田氏は信州へ侵攻することはなかったという、ある先生の考えでありましたが武田信昌が信州佐久郡に侵攻しており、長享日記は史実を伝えていると私は考えております。
文明4年(1472年)、信濃佐久郡の国人大井政朝が甲斐八代郡へ侵攻してきたため、花鳥山(山梨県笛吹市)で合戦を行った(『勝山記』)。後に信昌は大井氏の弱体化を見て逆に佐久郡へ侵攻したが、同じく佐久に侵攻していた村上氏のためにこれを阻まれた。『勝山記』などによると、信昌期に飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生などの記事が散見している。こうした中、延徳2年(1490年)には穴山氏・大井氏(武田大井氏)が合戦(『王代記』)を始めるなど、穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏といった国内の有力者が自立の動きを見せるようになる。
明応元年(1492年)に長男の信縄に家督を譲って隠居した。矢坪(山梨市矢坪)の永昌院を創建して菩提寺としている。また「落合御前」と呼ばれていることから(「武田信縄書状」(『向獄寺文書』)、



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