山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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茂木城②

2017-10-17 20:42:04 | 山城ー野州
本丸へ


本丸東虎口

本丸

1192年鎌倉幕府の設立の年に茂木知基が築城したという。

西南にある土塁と櫓跡

西南下にある腰曲輪
本丸南側の土塁

本丸北側下の空堀、奥に二の丸

二の丸

二の丸から中曲輪を見ています。

空堀から奥に三の丸

中曲輪(平面図に名称がありません。)

千人溜まり

平面図

千人溜まりから東下へ(平面図ではここを大手門としています。)

大手門の南への通路、右上が駐車場ですが東曲輪としておきます。

尾根を登れば出丸へ、右手の堀が出丸と東曲輪との空堀、左の通路は出丸の周囲を囲んでいます。

茂木城遠景

南北朝の内乱で茂木知貞が頭角を現す。
尊氏は叛乱の制圧に向かおうとし、天皇に征夷大将軍ヘの補任を求めたが許されず、無断で尊氏は関東に下り叛乱軍を撃ち破って鎌倉を解放した。以後、尊氏は天皇の召還命令を無視し、独自に武士に対する恩賞を行うなどした。これは新政への叛乱であり、天皇は新田義貞を大将として討伐軍を送った。
 尊氏は新田軍を箱根竹ノ下の一戦に破ると、敗走する新田軍を追って京都に攻め上った。これに対して、奥州の北畠顕家が攻め上り敗れた尊氏は九州に落ちていった。茂木知貞が尊氏に従ったのはこのころであったようで、知貞は奥州に帰る北畠軍を相馬氏とともに相模川・片瀬川で迎え撃っている。
 その後、九州で勢力を盛り返した尊氏は京都をふたたび征圧し、吉野に奔って南朝を開いた後醍醐天皇に対抗して、北朝をたて足利幕府を開いたのである。こうして南北朝の内乱が始まると、茂木知貞は尊氏(=北朝)方として活動した。建武三年、常陸国内で南朝方が優勢となると、知貞らは鎌倉府執事の斯波家長から軍勢催促状を受け、八月北朝方の拠点小山城の警護を勤め、九月横田原、十一月茂原の合戦で功を立てた。しかし、同月北畠顕家の率いる南朝方の攻撃で茂木城は落城し相伝の書類を焼失した。その後、足利直義に訴え従来の知行地を安堵された。
 文和二年(1353)に知貞が残した置文は、宇都宮社や幕府・鎌倉への税負担の内容が記された興味深いものである。また同文には、惣領の支配をよく守り、兄弟睦まじく、家門・子孫を繁栄させよとのくだりもみえ、知貞の家庭人としての姿をも彷彿させる。文和四年、知貞は死去したが、その一生は戦いに次ぐ戦いの連続であった。ウィキペディアより






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