勝山公園から二の丸北曲輪へ戻ります。
北側の空堀
北側は五本の空堀で守られています、鬼怒川が西に当たります。
北に勝山公園
北と西の本丸土塁が交差している所。
本丸の西下の空堀
北曲輪(仮に)
虎口?三本目の空堀に通じています。
三本目の空堀
勝山公園(曲輪ではないのか?)
二段目の土塁に戻り
門跡があったと思われる個所、この上段に
二の丸北曲輪があります。
宇都宮氏の有力武将であった芳賀氏は、この勝山城の一時城主であった。
清原吉澄(高澄)の子・高重が、花山院の勅勘を被り下野国芳賀郡大内荘へ配流され芳賀氏と称したのに始まる。一方で紀清主の子・長有が芳賀氏を称したとする系譜もある。
清原(芳賀)高重の7代後の芳賀高親のとき、紀党の益子正重とともに、源頼朝の奥州合戦に参加した宇都宮朝綱の有力武将として従軍した。以後宇都宮氏の属下となり、益子氏と並び紀清両党として武勇を誇った。
芳賀禅可の強盛と没落
主君・宇都宮氏との関係は深く、芳賀高直は宇都宮景綱の子・高久を養子にとり、宇都宮一族となっている。高久の子・高名は『太平記』に芳賀禅可入道と記述され、宇都宮氏綱を後見して宇都宮氏を主導した。そして観応の擾乱のなかで足利尊氏方として活躍したため、宇都宮氏は下野守護だけではなく上野・越後守護職を与えられ、また高名の養子で宇都宮氏綱の叔父の高貞と、高名の実子で高貞義弟の高家は越後守護代となった。しかし、鎌倉公方足利基氏に足利直義方だった上杉氏が帰参したことにより状況は一変、宇都宮氏綱の越後守護職は上杉憲顕に与えられた。これに対し芳賀禅可入道(高名)・高貞・高家が激怒し基氏方に叛き、武蔵国苦林野で合戦となった。この戦いで芳賀勢は敗北し、下野にいた宇都宮氏綱も追討対象となるが、氏綱は小山義政の仲介で戦わず降伏した。これにより強勢を誇った芳賀氏は一時勢力を失う。
ウィキペディアより
北側の空堀
北側は五本の空堀で守られています、鬼怒川が西に当たります。
北に勝山公園
北と西の本丸土塁が交差している所。
本丸の西下の空堀
北曲輪(仮に)
虎口?三本目の空堀に通じています。
三本目の空堀
勝山公園(曲輪ではないのか?)
二段目の土塁に戻り
門跡があったと思われる個所、この上段に
二の丸北曲輪があります。
宇都宮氏の有力武将であった芳賀氏は、この勝山城の一時城主であった。
清原吉澄(高澄)の子・高重が、花山院の勅勘を被り下野国芳賀郡大内荘へ配流され芳賀氏と称したのに始まる。一方で紀清主の子・長有が芳賀氏を称したとする系譜もある。
清原(芳賀)高重の7代後の芳賀高親のとき、紀党の益子正重とともに、源頼朝の奥州合戦に参加した宇都宮朝綱の有力武将として従軍した。以後宇都宮氏の属下となり、益子氏と並び紀清両党として武勇を誇った。
芳賀禅可の強盛と没落
主君・宇都宮氏との関係は深く、芳賀高直は宇都宮景綱の子・高久を養子にとり、宇都宮一族となっている。高久の子・高名は『太平記』に芳賀禅可入道と記述され、宇都宮氏綱を後見して宇都宮氏を主導した。そして観応の擾乱のなかで足利尊氏方として活躍したため、宇都宮氏は下野守護だけではなく上野・越後守護職を与えられ、また高名の養子で宇都宮氏綱の叔父の高貞と、高名の実子で高貞義弟の高家は越後守護代となった。しかし、鎌倉公方足利基氏に足利直義方だった上杉氏が帰参したことにより状況は一変、宇都宮氏綱の越後守護職は上杉憲顕に与えられた。これに対し芳賀禅可入道(高名)・高貞・高家が激怒し基氏方に叛き、武蔵国苦林野で合戦となった。この戦いで芳賀勢は敗北し、下野にいた宇都宮氏綱も追討対象となるが、氏綱は小山義政の仲介で戦わず降伏した。これにより強勢を誇った芳賀氏は一時勢力を失う。
ウィキペディアより