山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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塩崎城②

2017-06-09 21:33:37 | 山城ー信州
階段状の曲輪群を登ります。


長谷寺にある縄張り図、階段状の曲輪を見てゆきます。

第一曲輪

第二曲輪

第三曲輪

第四曲輪

第五曲輪

第六曲輪

第七曲輪

曲輪3

曲輪3を見下ろしています。

曲輪2、見事な石垣が残っています。当寺は虎口を挟んで両側に石垣があったものと思われます。

次回 本丸へ

第五次川中島合戦
第五次合戦
川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言う。上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は川中島に出陣するが、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わった。
上杉輝虎は、関東へ連年出兵して北条氏康との戦いを続け、武田信玄は常に輝虎の背後を脅かしていた。輝虎の信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓っている。
飛騨国では国衆同志の争いが武田・上杉氏の対立と相関し、飛騨国衆の三木良頼・三木自綱親子と江間輝盛は、江馬時盛と敵対していた。永禄7年(1564年)には信玄が江間時盛を、輝虎が三木氏・江間輝盛を支援して介入する。『甲陽軍鑑』によれば、同年6月に信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠(信忠)を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江間輝盛は劣勢となる。同年8月、輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、輝虎は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。 ウィキペディアより



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