山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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国峰城②

2017-01-30 21:54:31 | 山城ー上州
東尾根へ


林道を作ったために尾根を切り裂いたが、この左手にも遺構があります。

櫓台

東尾根第一堀切

第一曲輪

第二堀切

東尾根を進み

第三堀切

高い峰が現れ

物見と思われる曲輪

東尾根第一堀切から北斜面に下ると

堀切があって、水の手

林道に戻って、南に回ると登り口があります。東側斜面には四つの竪堀が見事に整備され見ることができますが、次回とします。

小幡氏について
家紋は「軍配に七五三笹」。 発祥地・上野に拠った上州小幡氏の系統は早くに二つに分かれたとみられ、小幡右衛門尉と三河守をそれぞれ名乗っている。前者は小幡氏行[1]を祖とし、のち宗家として国峰城を支配した。後者は系図上では小幡次郎重高(行頼の弟)を祖に持つといい[2]、鷲鼻城を本願地とした[3]。ただし戦国期には両家は独自に行動しており、宗家・分家としてのまとまりは無い[2]。
上州小幡氏は室町期に山内上杉氏の被官となっていたとみられるが、上杉憲政が後北条氏に追われて上野を失った際、三河守系は憲政に従い越後に逃れた。三河守系が山内上杉氏に仕えて北武蔵方面に勢力を持っていたため後北条氏に追われることになったとする説もある[2]。その後、小幡三河守は長尾景虎の上杉氏継承に参列するなど上杉方であったが、三河守信尚はのちに武田氏に属することになった。
一方で国峰城の小幡憲重については、後北条方に離反したと考えられてきたが、近年になって程なく後北条氏から武田氏に鞍替えしていたことが判明している。その結果、山内上杉氏の没落と後北条氏の進出後に憲重は武田氏の家臣でありながら後北条氏からも一部所領の安堵を受けると言う関係になった。武田氏帰属の事実は憲重の嫡男は元服後に武田晴信(信玄)の一字から「信実(信貞)」と名乗っている事からも裏付けられる[4][5]。しかし憲重の行動に対して憲政退去後も後北条方につかず抵抗していた箕輪城主長野業正は、小幡一族の小幡景純(あるいは憲重の弟・景定)とその養子・次郎信之[6]を後押しし、憲重の草津温泉滞在中に反乱を起こさせ国峰城を占拠させた[7]、小幡領を上杉方の勢力下に戻してしまった。このため憲重と嫡男・信貞は武田信玄を頼り甲斐に亡命した。信玄はこの亡命を利用し国峰城へ侵攻、景純を討死にさせ、小幡氏は武田氏の西上州侵攻の先鋒となっていく。ウィキペディアより
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