山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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観勝院山城②

2017-10-04 21:25:19 | 山城ー信州
曲輪3から曲輪2へ

第三堀切

第四堀切、間に曲輪4

曲輪3

曲輪3の東西の斜面には多くの段曲輪

縄張り図は「信濃の山城と館7」安曇・木曽編
西へ下る竪堀

竪堀を段曲輪で受けます。

第五堀切

第六堀切と曲輪2(形状に特徴があり真田丸のような要塞)

鞍部となって、北に本丸が続きますが次回とします。

仁科氏
鎌倉時代
この頃には既に安曇郡一帯を治める大豪族として知られるようになり、仁科盛家は木曾義仲の挙兵に従って、横田河原の戦い、倶利伽羅峠の戦い等で武功を上げ、在洛中は京中警護を行い、水島の戦いで戦死した。信濃源氏高梨盛光の四男盛弘も仁科氏の養子となって義仲挙兵に従い、盛弘の子である盛宗は建武の新政で後醍醐天皇方の武者所の寄人を務めたとされる。 建久8年(1197年)の源頼朝の善光寺参詣には仁科太郎が供奉している。
盛遠は熊野参詣の折に後鳥羽上皇の知遇を得て西面武士を務めたが、その処遇が一端となって、承久3年(1221年)に承久の乱が起きた。盛遠は上皇方として北陸道に派遣されて越中国で北条朝時の幕府軍と戦い敗死した。暦仁元年(1238年)、将軍藤原頼経の上洛の隋兵を仁科次郎三郎が務めている。
室町・戦国時代
南北朝の争いには南朝に属し宗良親王を奉じ、文和元年(1352年)の武蔵野合戦に出陣したが敗北し、その後、北朝側の守護小笠原長基と争ったが、南朝衰亡によって北朝に帰属した。一族の重貞は上洛して後醍醐天皇に随身している。その後の大塔合戦では盛房が大文字一揆衆を率いて守護軍を圧倒し、小笠原長秀を信濃から追い払う活躍を見せる[13][14]。
応仁元年(1467年)からの応仁の乱では東軍(細川勝元)につく。文明12年(1480年)には盛直が小笠原長朝と穂高川で戦って敗れたが(穂高合戦)、翌年諏訪氏に従って長朝の軍を破った。また、長享元年(1487年)からの長享・延徳の乱では、将軍足利義尚の近江国守護六角高頼征討に出陣して戦功を挙げた。明盛も永正10年(1513年)に将軍足利義稙が六角征討を再開すると近江国に出陣した。ウィキペディアより