山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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松代城の三日月掘・松本城南・西堀の発掘調査

2017-08-08 21:11:48 | 日記
松代城跡「三日月堀」護岸の遺構確認




松代城跡の三日月堀の護岸遺構。石の列の右側が堀だったとみられる
 長野市教委は26日、松代地区の松代城跡で2015年に国史跡に追加指定された範囲を発掘調査した結果、「三日月堀」の護岸の遺構を確認したと発表した。堀の存在は江戸時代の絵図などで知られていたが、実際に確認されたのは初めて。29日に現地説明会を開く。

 三日月堀は、防御力を高めるために城門の前に築かれた半円形の「丸馬出し」に併せて造られ、戦国武将・武田氏の築城技術の特徴とされる。護岸の遺構が見つかったのは城跡の東側。縦10メートル、横10メートル、深さ2メートルほどを発掘し、石や盛土を確認した。堀の水で浸食されないよう、石を粘土で固めたとみられるという。

 松代城は、戦国時代に武田氏と越後の上杉氏が争った「川中島の合戦」で永禄3(1560)年ごろ、武田方の拠点「海津城」として造られたと伝わる。三日月堀は、元和8(1622)年に真田家が松代藩に移封された頃の絵図に描かれているといい、市教委は、今回の遺構が城の当初の姿を知る手掛かりにもなり得るとみている。

 遺構の石には直径約2メートルの大きなものもあり、担当者は「大掛かりな土木工事が行われたことが分かる」と説明。小さな石を使った方が隙間を減らせて浸食防止には効果的なため、巨石を使った三日月堀は珍しいという。市教委は今後、巨石を使った目的なども探りたいとしている。

 この発掘調査では、城跡の南側にある「二の丸」の土塁の痕跡も確認した。

 現地説明会は午前10時から。申し込み不要。問い合わせは市教委文化財課(電話026・224・7013)へ。 信毎WEBより


松本城南・西外堀の発掘調査始まる 復元事業
外堀復元に向け始まった発掘調査=松本市丸の内の松本城二の丸で

 国宝松本城(松本市丸の内)の南・西外堀復元に向けて、市教委による発掘調査が始まった。復元の基本方針は「幕末・維新期の姿をできる限り再現する」こと。外堀は本丸、二の丸とともに国史跡に指定されており、調査は慎重に進められている。二〇一七~一八年度に試掘、一九~二一年度に面的な発掘調査を行い、完全復元を目指す。
 外堀復元事業の対象地は約九千三百平方メートルで、移転が必要になる家屋は八十戸。移転の了承が得られた土地から順次、国史跡に追加指定して発掘調査を進める計画だ。
 市教委文化財課の竹内靖長課長補佐によると、本年度調査は堀の内側(二の丸側)と外側(三の丸側)の計十一カ所に幅三メートル、長さ三~十メートルのトレンチ(試掘溝)を開けて実施。復元に必要な堀の正確な位置や、土坡(どは)(土手)・石垣の形状、土塁の範囲などを把握する考え。
 一八年度は、堀の深さや形状を確認するため、南外堀を横断する試掘調査をする。幅十三メートル、長さ三十八メートルの大規模な調査になる予定で、一九年度から始まる堀の本格発掘に備えたデータを収集する計画だ。
 難しいとされるのが堀の内部構造の確認。底は一様に平らではなく、場所によって深くなっていたり、突出していたり、区画されていたりする可能性があるからだ。敵の侵入を防ぐため、杭(くい)列が設けられていることも想定されるという。
 竹内課長補佐は「松本城管理事務所が所蔵する享保十三(一七二八)年の絵図や文献資料を活用するほか、大坂城や山形県の米沢城などで行われた堀の発掘調査成果などを参考にして南・西外堀の発掘を進め、幕末期に近い形での復元に貢献したい」と話している。 中日新聞より
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虚空蔵山城(麻績古城)④

2017-08-08 20:13:10 | 山城ー信州
本丸の北尾根、大堀切から二の丸、そして北東尾根へ


北尾根大堀切

少し下って大堀切を見下ろしています。

大堀切の西側を守る腰曲輪

第二腰曲輪

第三段曲輪

第四段曲輪、実は前回記事の南西尾根、南東尾根の斜面にも縄張り図のように多くの段曲輪が構築されています。

縄張り図「信濃の山城と館4」南西尾根、南東尾根にも段曲輪が沢山あります。

段曲輪から本丸城壁を見上げています。

二の丸

縄張り図のように、二の丸から東に支尾根が伸びています。東尾根第一曲輪

第一曲輪を見返しています。

第二曲輪

第三曲輪

第三曲輪を見返しています。岩が面白い

東支尾根先端曲輪

麻績城主 服部清信は麻績村 海善寺に供養塔があるそうです。
麻績城祉服部左衛門清信(はっとりざえもんきよのぶ)の弟で、海善寺(かいぜんじ)の住職となった海順坊が兄の城主清信とその子清正の菩提を弔うために建てたという五輪塔と多宝塔がある。
 しかし最近専門家の調査により両基とも鎌倉・室町両時代のものが組み合わされていると鑑定され、これにまつわる人物の解明は今後の研究をまつことになった。
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