山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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岡本城

2017-08-01 21:01:17 | 山城ー野州
岡本城は栃木県宇都宮市中岡本町にあります。

岡本城地図

国道4号線から信号下岡本で地方道73号線に入り、北に向かい岡本北小を過ぎて、台岡本のバス停を右折し稲荷神社左手に岡本城があります。


岡本城大手虎口

大手虎口の左手と空堀

大手虎口の右手、空堀

右手を東に進み、説明板

南北朝期、岡本富高が築城した説と1462年玉生重秀が築いたとの説があるそうです。玉生氏は宇都宮氏の配下であったと伝えられています。

本丸から虎口を見ています。

本丸、土塁に囲まれています。

虎口の東側の空堀

虎口の右側の空堀

本丸を北から見ています。

宇都宮国綱について
天正4年8月7日(1576年8月30日)、父・広綱の死とともに宇都宮氏22代目を継承する。しかし、年少であったことと父の死に付け込まれて、壬生氏や皆川氏などの国内の反対勢力が活発化した事もあり、後北条氏の侵攻がさらに激化することとなった。これに対し国綱は常陸国の佐竹氏や下総国の結城氏、甲斐国の武田勝頼、さらには豊臣秀吉と手を結んで対抗する。
しかし、小田原征伐直前には、鹿沼城、真岡城、壬生城などの周辺諸城が全て北条に寝返っており、国綱は拠点を平城の宇都宮城から山城の多気城に移さざるを得ない状況にまで追い詰められ、施策としては秀吉の出陣を願うのみとなっていた。
天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐に参陣、石田三成の指揮した忍城攻撃などに参加し、下野国18万石の所領を安堵された[注釈 1]。 その後は秀吉に従い、文禄の役にも参陣している。また、秀吉の力を背景に家中の統制を強め[1]、文禄3年(1594年)には豊臣姓を下賜された。
しかし慶長2年10月13日(1597年11月22日)、突如として秀吉の命により改易された。これには諸説あるが、宇都宮興廃記によれば、国綱には継嗣が無かったため、五奉行である浅野長政の三男・長重[2]を養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに猛反対し、縁組を進めていた国綱側近の今泉高光を殺害してしまった。長政がそれを恨みに思ったため、その讒言により改易されたとしている。傍証として、慶長2年10月7日の佐竹義宣から父・義重に宛てた書状がある。そこには、宇都宮氏を与力大名とし、姻戚関係もある佐竹氏にも改易命令が出されたが石田三成の取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、浅野弾正の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように」という三成から指示を受けたことが書かれている。このことからも、宇都宮氏の改易に浅野長政の関与があったことが伺える。他に、太閤検地に際して結果が秀吉が安堵した18万石ではなくその倍以上であった、という石高詐称によるもの[3]という説もある。更に国綱と今泉ら側近が進めてきた家中の統制強化に長年にわたって宇都宮氏の実権を握ってきた門閥重臣を代表する芳賀氏が反発し、門閥対側近による合戦に至ったことが原因とする説もある[4]。ウィキペディアより
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